信仰とはありのままの状態から無理やり+1信仰方向に移動する行為。
信仰している側からすると信仰しない、つまりはありのままでいる事は+1から0相対的にに絶対値1移動しているように見えるので同じような1に値する信仰と感じてしまう。
老子などが俗世から引き算的な思想と言われるのもこれが原因
単純な話、基本人間は攻撃的。
有神論、無神論関係ない。
その自らの攻撃的な一面をどこかの属性だけを特定して晒し上げようとするなら、より攻撃的で悪質と言えるだろう。
そして集団になるとよりこのような特徴が顕著に現れる。宗教は集団を作るのでこのような傾向に陥りやすい。
生を良しとするなら、そこで起こること全てを受け入れなければならない。
反出生主義もその受け入れなければいけない物の1つである。
もし、これを否定するならその人は生を肯定しているのではなく自分の理想の生を肯定しているだけである。
つまりはどうしようもない自己中な上に、本質的には自分が
Replying to @NY_171717
自分のことしか考えてないのは、どう考えても反出生主義をこじらせてるお前なんだよ。お前。
「自分が」傷つくのが怖いから、「自分が」理不尽な世界を見たくないから。
それを「生まれてくる子供への配慮」なんていう吐き気がする綺麗事でコーティングして、自分の逃げを正当化してるだけじゃねえか。
「苦痛があるなら最初から存在しない方がいい」なんていうお前の極端に貧弱なメンタルとペラペラの被害妄想を、これから生まれてくる全人類に押し付けて「産むな」と喚き散らすことこそ、究極のエゴであり、最高に自己中心的なんだわ。
殆どの人間は、他人が自分の思い通りに動かなければ多少なりとも負の感情を抱く。
そして、皆が皆の思う通りに行動することも不可能。
ならば万人の存在そのものが加害としか言いようがない。
個人の中での相対性(自殺する、しない)
個人と個人の中での相対性(優劣、上下関係など)
存在するだけで必ず
Replying to @nantuwka @nonbeepanda
はい、頭がおかしいです。
なので意見を変える気はありません。
家族や友人に自死された人たちがどれだけの傷を心に負うか、この目で見てきましたので。
人生が狂ってしまう人もいるのです。
自死者はそれを肝に銘じて欲しいと思います。
相対的な関係が生まれ、そこに実体と期待が生まれそれらは人の喜怒哀楽の感情を生みだす。
これらを受け入れられない、もしくは喜怒哀楽のうちの好きなところだけチェリービックするのは本質的な生ではない。
生を肯定するならば、これら全てを肯定するかもしくは万人を悟らせ相対的な物の見方から
何故、生きる事は苦痛だと押し付けてくるのか?
他人に生きる事を強制させられたからでしょう?
貴方が反出生主義を個人の中にとどめろというのなら、例え人生に満足していようがそれも個人の中で押し留めるべきだ。
実力行使の出生主義こそ他人に強制してはならない。
Replying to @tomoe_god_mami
自分の人生に結構満足してて
山あり谷ありだけど生まれてよかったと思ってる
反出生ってこういう人の意見はフル無視で
生きることは苦痛って押し付けてくるのはなんでや
自分が子供作らなければいいだけやのに
オキシトシン=幸福は都合のいい幻想。
脳科学的にこのホルモンの本質は「身内愛」と表裏一体の「異物排除と攻撃性」とされふ。
陰湿ないじめや部外者への私刑、他人の不幸を喜ぶ感情を発生させるのもオキシトシン。身内を守る大義名分のもと、外側にどれだけ残酷になれるかのスイッチでもある。
幸福をどれだけ味わえるかは、分解すると「幸福ホルモン」をどれだけ分泌させるかのゲームになる
その1つに「オキシトシン」がある
俗に「愛情ホルモン」とか「繋がりホルモン」と呼ばれるものだ
安心を感じられ、ストレスが軽減される
この「オキシトシン」が本気で出るのは、愛する人(恋人・子供)と繋がりを感じたり、触れ合ったりした時だけなんだよな
それ以外でも分泌されるんだが、弱い
つまり愛する人がいない場合、幸福を感じるために他のホルモンを分泌させる必要がある
幸福を感じようとして、ドーパミンやエンドルフィンを分泌させようとすると、酒やSEX、ギャンブルに溺れてしまうのよ
愛着障害とかはまさにこれ
ドーパミンやエンドルフィンは一度分泌されても、またもとに戻ってしまい、より強い刺激を求め続けなければならない
結果的に人生を壊してしまう人も多い
最も安全で、恒常的に幸福を感じられるのは「オキシトシン」だ
そして子供ができれば、愛する対象がパートナーと子供の2つになる
だから幸福になるには、愛する人と子供を作るのが一番いいんだよ
この善があることで善の欠如が生まれ、相対的に悪と表現されるという流れ、法則は誰が作ったのか?
善である神の出現と共にその法則が生まれたと考える事はできない。
平地に山を作ると相対的な高低差ができるが
山を作る前から山を作れば相対的な差が生まれるという状態であり山を作ることで、
Replying to @GingkoArbor @meganehead1
もう少し神学を勉強するといいでしょう。まず、キリスト教は善対悪ではなく善の欠如が悪なのです。勉強していないから、そういう自分の思い込みで恥ずかしいことを書いて発信してしまうのです。勉強している人たちから嘲笑されてしまうのです。あなたのために言っているのですよ。
自分の都合は意地でも動かさない。
それこそ絶対的な善である。
都合、つまり善はいわゆる神が現れる前に存在した流れや法則を無理やり固定するものである。流れをとめれば歪ができる、歪ができれば人々は苦しむ。個人という幻想もそうだが流れを固定するものは全て人を苦しめてしまっている。
哲学はつまらん。
どれだけ足掻いても主張することが現代版老子の解釈かそれらの応用に落ち着く
老子を全く読んでいなかったり、韓非子内の解老を少し読んだだけでそう思わせる、思うことができるというのが老子のよい所。
人に勧めたい本No1でもあり、別に他人に勧めたいわけでもない本No1でもある














