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じろーの面倒くさい話
私のnoteの【マガジン】にまとめてあります。
良かったら、読んでいただけると嬉しいです。
※全話勿論無料です。
#note
#コラム
note.com/jsreal_0206/m/m532f…
【じろーの面倒くさい話】
来年は未年。羊ってどんな意味がある??
こんにちは、じろーです。
今日も【じろーの面倒くさい話】を書きました
どうぞ最後までゆっくりご覧ください。
ふとカレンダーを見て
「そういえば、来年は未(ひつじ)年やなぁ」
なんてことを考えていました。
パソコンに向かって文章を書こうとしていたら、キーボードのすぐ脇に、ちょこんと座っている羊のぬいぐるみと目が合いました。
首に小さな鈴をつけて、じっとこちらを見上げている。
「……そういえばオマエ、来年の主役やないか」
そんな何気ないきっかけから、ふと疑問が湧いてきました。
「羊って、昔から私たち人間とどんな関わりがあったんやろ? そもそも、なんで漢字にこんなによく使われてるんや?」
最近、こうしてあれこれ書き物をするようになってから、言葉や文字のひとつひとつに、じっと足を止めて思いを馳せることが増えました。
「なんでこの漢字を使うんやろう?」 「この字で合ってたっけ? どんな成り立ちなんやろ?」
普段はスマホやパソコンでポンと一瞬で変換して通り過ぎてしまうけれど、立ち止まって調べてみると、たった一個の漢字の中にいくつもの物語があったり、途方もない歴史や、昔の誰かの切実な祈りが隠されていたりします。
気になって「羊」のつく漢字を調べてみたら、これが驚くほど面白い。
古代の人にとって、羊はおとなしく従順で、肉やミルク、毛皮で人々の命をまるごと支えてくれる、何よりも尊い存在でした。
だから神様に捧げる最高の存在でもあった。
そこから転じて、「羊」という字が入る漢字には、美しくて温かい意味の文字ばかりが集まっています。
大きく立派に育った羊の姿から生まれた「美」。 羊のように穏やかで素直な心を表す「善」。
神様の前で羊を掲げて自らを正す「義」。
めでたい兆しを表す吉祥の「祥」。
人間が「何が正しくて、何が美しいか」という心の基準を考えたとき、その根っこにはいつも、命を支えてくれる羊への感謝と温もりがあったわけです。
ついでに気になって、部首によく使われる「女」という字も調べてみました。
これもまた、深い意味がゴロゴロ出てくる。
たとえば「姓」という字。
現代では苗字のことですが、文字を分解すると「女」から「生」まれると書きます。
大昔は、母親から命を受け継ぐことこそがその人の絶対的なルーツだった。
「命がどこから始まったか」をそのまま表した字なんです。
何かを始めるの「始」もそう。
「女」に「台(土台)」と書く。 お母さんのお腹の中で新しい命が宿り、形づくられ、息吹き始める瞬間。何かが動き出す最初の土台には、いつだって命を生み出す女性の力があった。
そうやって文字の奥にある物語を知っていくと、きりがありません。
でも同時に、ハッとさせられるんです。
「オイラたち、日々の忙しさに紛れて、大事なものをどっかに置き忘れてるんちゃうか?」って。
文字の重みや命の背景を知ると、安易な軽口なんてそう簡単に叩けなくなります。
自分の発する言葉ひとつひとつに、ちゃんと責任を持たなあかんな、と背筋が伸びる思いがする。
今の世の中、SNSなんかを見ていると、思いついた意見や感情がポンポンと軽いスピードで飛び交っています。
誰かを喜ばせることもあるけれど、何気ない一言が刃物になって誰かを深く傷つけてしまうこともある。
どうせ言葉を口にするなら、人を傷つけるためじゃなく、喜ばせたり、ほっとさせたりする方に使いたい。つくづくそう思います。
言葉を大切にするっていうのは、小難しい理屈をこねることじゃなくて、その文字の向こうにある「人間の体温」を忘れないことなんやと思います。
漢字ひとつにしても、いま目の前で首をかしげている羊のぬいぐるみひとつにしても。
世の中にあるたくさんの物を、こうやってひとつずつ立ち止まって考えてみると、普段どれだけ大事なものを雑に扱ってしまっていたかに気づかされます。
本当はもっと大切にしないといけない物。
尊い物や、優しい使い方。
スピードばかりが求められるせわしない毎日の中で、そんなふうに「ふと立ち止まって考える時間」を持つこと自体が、
私たち人間に与えられた、いちばん贅沢で豊かな時間なのかもしれません。
来年の干支のぬいぐるみを撫でながら、そんな面倒くさいことを考えていた、ある日の午後でした。
【じろーの面倒くさい話】
今日も最後待て呼んでいただき
本当にありがとうございました。
【じろーの面倒くさい話】
来年は未年。羊ってどんな意味がある??
こんにちは、じろーです。
今日も【じろーの面倒くさい話】を書きました
どうぞ最後までゆっくりご覧ください。
ふとカレンダーを見て
「そういえば、来年は未(ひつじ)年やなぁ」
なんてことを考えていました。
パソコンに向かって文章を書こうとしていたら、キーボードのすぐ脇に、ちょこんと座っている羊のぬいぐるみと目が合いました。
首に小さな鈴をつけて、じっとこちらを見上げている。
「……そういえばオマエ、来年の主役やないか」
そんな何気ないきっかけから、ふと疑問が湧いてきました。
「羊って、昔から私たち人間とどんな関わりがあったんやろ? そもそも、なんで漢字にこんなによく使われてるんや?」
最近、こうしてあれこれ書き物をするようになってから、言葉や文字のひとつひとつに、じっと足を止めて思いを馳せることが増えました。
「なんでこの漢字を使うんやろう?」 「この字で合ってたっけ? どんな成り立ちなんやろ?」
普段はスマホやパソコンでポンと一瞬で変換して通り過ぎてしまうけれど、立ち止まって調べてみると、たった一個の漢字の中にいくつもの物語があったり、途方もない歴史や、昔の誰かの切実な祈りが隠されていたりします。
気になって「羊」のつく漢字を調べてみたら、これが驚くほど面白い。
古代の人にとって、羊はおとなしく従順で、肉やミルク、毛皮で人々の命をまるごと支えてくれる、何よりも尊い存在でした。
だから神様に捧げる最高の存在でもあった。
そこから転じて、「羊」という字が入る漢字には、美しくて温かい意味の文字ばかりが集まっています。
大きく立派に育った羊の姿から生まれた「美」。 羊のように穏やかで素直な心を表す「善」。
神様の前で羊を掲げて自らを正す「義」。
めでたい兆しを表す吉祥の「祥」。
人間が「何が正しくて、何が美しいか」という心の基準を考えたとき、その根っこにはいつも、命を支えてくれる羊への感謝と温もりがあったわけです。
ついでに気になって、部首によく使われる「女」という字も調べてみました。
これもまた、深い意味がゴロゴロ出てくる。
たとえば「姓」という字。
現代では苗字のことですが、文字を分解すると「女」から「生」まれると書きます。
大昔は、母親から命を受け継ぐことこそがその人の絶対的なルーツだった。
「命がどこから始まったか」をそのまま表した字なんです。
何かを始めるの「始」もそう。
「女」に「台(土台)」と書く。 お母さんのお腹の中で新しい命が宿り、形づくられ、息吹き始める瞬間。何かが動き出す最初の土台には、いつだって命を生み出す女性の力があった。
そうやって文字の奥にある物語を知っていくと、きりがありません。
でも同時に、ハッとさせられるんです。
「オイラたち、日々の忙しさに紛れて、大事なものをどっかに置き忘れてるんちゃうか?」って。
文字の重みや命の背景を知ると、安易な軽口なんてそう簡単に叩けなくなります。
自分の発する言葉ひとつひとつに、ちゃんと責任を持たなあかんな、と背筋が伸びる思いがする。
今の世の中、SNSなんかを見ていると、思いついた意見や感情がポンポンと軽いスピードで飛び交っています。
誰かを喜ばせることもあるけれど、何気ない一言が刃物になって誰かを深く傷つけてしまうこともある。
どうせ言葉を口にするなら、人を傷つけるためじゃなく、喜ばせたり、ほっとさせたりする方に使いたい。つくづくそう思います。
言葉を大切にするっていうのは、小難しい理屈をこねることじゃなくて、その文字の向こうにある「人間の体温」を忘れないことなんやと思います。
漢字ひとつにしても、いま目の前で首をかしげている羊のぬいぐるみひとつにしても。
世の中にあるたくさんの物を、こうやってひとつずつ立ち止まって考えてみると、普段どれだけ大事なものを雑に扱ってしまっていたかに気づかされます。
本当はもっと大切にしないといけない物。
尊い物や、優しい使い方。
スピードばかりが求められるせわしない毎日の中で、そんなふうに「ふと立ち止まって考える時間」を持つこと自体が、
私たち人間に与えられた、いちばん贅沢で豊かな時間なのかもしれません。
来年の干支のぬいぐるみを撫でながら、そんな面倒くさいことを考えていた、ある日の午後でした。
【じろーの面倒くさい話】
今日も最後待て呼んでいただき
本当にありがとうございました。
キラちゃん
たくさんの癒しや笑顔になる時間を本当にありがとうございました。
ゆっくり休んでね…
#鳥羽水族館
#キラちゃん
鳥羽水族館のラッコ キラちゃん 18歳で天国へ 呼吸不全による心肺停止か(三重テレビ放送) - Yahoo!ニュース share.google/usuWdRdFpiQDHr8…
【じろーの面倒くさい話】
今夜も書きました
どうぞ最後までご覧ください
よろしくお願いいたします
note.com/jsreal_0206/n/n91a8…
【じろーの面倒くさい話】
【じろーの面倒くさい話】
こんばんは、じろーです。
今夜もちょっと書きました。
今夜は「ええ加減」な人になりたい
~中道という本来の意味~
最近、ニュースなんかで「中道」って言葉をよく耳にします。
でも、流れてくる話を見ていると、なんだか心がざわついたり、モヤモヤしたりしませんか。
モヤモヤどころじゃないですね
ブチキレてます。少なくとも私は...笑
ただ頭数を合わせるためにくっついて、意見が合わなけりゃすぐに揉めてバラバラ。
知らぬ存ぜぬの顔をして、気がつけば批判の言い合いばかり。
「中道」という言葉が、まるで都合のいい言い訳や、中途半端なごまかしに使われているような気がしてならないのです。
腹立つ。
ほんま腹立つ。怒
そんな時、ふと昔にお坊さんから聞いた話を思い出しました。
お彼岸の頃だったでしょうか。
「昼と夜の長さがちょうど真ん中になるお彼岸は、仏教でいう「中道」の日なんですよ…と
そのお坊さんは言いました。
「中道」とは、どちらか一方に偏らないこと。
お互いに歩み寄り、お互いの良いところを分け合って、確かめ合って、さらに良い方へと導き合うこと。
そして、お坊さんはこう続けたんです。
「この塩梅のことをね、私は『ええ加減(良い加減)』と呼ぶのが一番しっくりくるんです。
だから、本当は『ええ加減な人』こそ、もっと称えられてもいいはずなんですよ」と。
世間では「いい加減な奴」というと、中途半端で無責任な人をけなす言葉に使われがちです。
けど、物事のちょうどいい塩梅を見つけて、相手に寄り添える柔軟さを持った人。
「あの人は、なんてええ加減な人なんだろう」 そう言われる人こそ、本当に見習うべき大人なんじゃないかと。お坊さんは仰いました。
若い頃の私は、それを聞いて「なるほどなぁ」と膝を打ちました。
そもそも、「互い」という言葉の語源は「違い」からきているそうです。
考えややり方が「すれ違う(違う)」からこそ、相手の立場に立って交互に思いをやり取りする。
そこから生まれたのが「お互い様」という言葉だとか。
ある台所で、嫁と姑が漬け物を切っていました。 お嫁さんは、お漬け物のたくあんを丸ごと1本、そのまま端から薄切りにしていきます。
それを見たお姑さんが眉をひそめて叱りました。 「まずは縦半分に切ってから切るもんですよ!」
お嫁さんは「はいはい、そうすりゃいいんでしょ」と膨れっ面。
お姑さんは「言った通りにしなさい」とご満悦。 台所の空気は一気にピリつき、すれ違いのまま険悪になりそうでした。
ところが、少し間を置いて、お嫁さんがポツリと言ったんです。
「……でも、縦半分に切った方が、お皿に盛ったとき綺麗だし食べやすいですね」
すると、お姑さんもふっと表情を緩めて言いました。
「でもね、あなたの切った丸ごとの薄切りも、パリパリと歯応えがあってご飯が進むわよ」
お互いの「違い」をぶつけ合って終わるのではなく、相手のやり方の良いところを、ほんの少しだけ認め合う。
その日の食卓には
「これは私が切ったやつ」
「これはお嫁さんが切ったやつ」
と、ふたつの漬け物が並びました。
家族みんなでポリポリとつまみながら、なんとも「ええ塩梅」の温かい夕飯になったそうです。
白か黒か、正しいか間違っているか。
どちらか一方に偏って相手を論破しようとする世の中は、どうにも息が詰まります。
「まあ、あんたの言い分も一理あるし、こっちのやり方も悪くない。どっちもええやんか」
そんなふうに笑って肩の力を抜ける「ええ加減な人」が、今の時代に一番かっこいいんじゃないか。
と中道改革連合のしばいたろかと思うほどの腹立たしさ
本当の意味の「中道」という意味の大切さ
を両方考えて
頭の中ごちゃごちゃになってきた
っていう【じろーの面倒くさい話】でした。笑
いかがでしたでしょうか。
今夜も最後までお読みいただき本当にありがとうございました。
【じろーの面倒くさい話】
【じろーの面倒くさい話】
こんばんは、じろーです。
今夜もちょっと書きました。
今夜は「ええ加減」な人になりたい
~中道という本来の意味~
最近、ニュースなんかで「中道」って言葉をよく耳にします。
でも、流れてくる話を見ていると、なんだか心がざわついたり、モヤモヤしたりしませんか。
モヤモヤどころじゃないですね
ブチキレてます。少なくとも私は...笑
ただ頭数を合わせるためにくっついて、意見が合わなけりゃすぐに揉めてバラバラ。
知らぬ存ぜぬの顔をして、気がつけば批判の言い合いばかり。
「中道」という言葉が、まるで都合のいい言い訳や、中途半端なごまかしに使われているような気がしてならないのです。
腹立つ。
ほんま腹立つ。怒
そんな時、ふと昔にお坊さんから聞いた話を思い出しました。
お彼岸の頃だったでしょうか。
「昼と夜の長さがちょうど真ん中になるお彼岸は、仏教でいう「中道」の日なんですよ…と
そのお坊さんは言いました。
「中道」とは、どちらか一方に偏らないこと。
お互いに歩み寄り、お互いの良いところを分け合って、確かめ合って、さらに良い方へと導き合うこと。
そして、お坊さんはこう続けたんです。
「この塩梅のことをね、私は『ええ加減(良い加減)』と呼ぶのが一番しっくりくるんです。
だから、本当は『ええ加減な人』こそ、もっと称えられてもいいはずなんですよ」と。
世間では「いい加減な奴」というと、中途半端で無責任な人をけなす言葉に使われがちです。
けど、物事のちょうどいい塩梅を見つけて、相手に寄り添える柔軟さを持った人。
「あの人は、なんてええ加減な人なんだろう」 そう言われる人こそ、本当に見習うべき大人なんじゃないかと。お坊さんは仰いました。
若い頃の私は、それを聞いて「なるほどなぁ」と膝を打ちました。
そもそも、「互い」という言葉の語源は「違い」からきているそうです。
考えややり方が「すれ違う(違う)」からこそ、相手の立場に立って交互に思いをやり取りする。
そこから生まれたのが「お互い様」という言葉だとか。
ある台所で、嫁と姑が漬け物を切っていました。 お嫁さんは、お漬け物のたくあんを丸ごと1本、そのまま端から薄切りにしていきます。
それを見たお姑さんが眉をひそめて叱りました。 「まずは縦半分に切ってから切るもんですよ!」
お嫁さんは「はいはい、そうすりゃいいんでしょ」と膨れっ面。
お姑さんは「言った通りにしなさい」とご満悦。 台所の空気は一気にピリつき、すれ違いのまま険悪になりそうでした。
ところが、少し間を置いて、お嫁さんがポツリと言ったんです。
「……でも、縦半分に切った方が、お皿に盛ったとき綺麗だし食べやすいですね」
すると、お姑さんもふっと表情を緩めて言いました。
「でもね、あなたの切った丸ごとの薄切りも、パリパリと歯応えがあってご飯が進むわよ」
お互いの「違い」をぶつけ合って終わるのではなく、相手のやり方の良いところを、ほんの少しだけ認め合う。
その日の食卓には
「これは私が切ったやつ」
「これはお嫁さんが切ったやつ」
と、ふたつの漬け物が並びました。
家族みんなでポリポリとつまみながら、なんとも「ええ塩梅」の温かい夕飯になったそうです。
白か黒か、正しいか間違っているか。
どちらか一方に偏って相手を論破しようとする世の中は、どうにも息が詰まります。
「まあ、あんたの言い分も一理あるし、こっちのやり方も悪くない。どっちもええやんか」
そんなふうに笑って肩の力を抜ける「ええ加減な人」が、今の時代に一番かっこいいんじゃないか。
と中道改革連合のしばいたろかと思うほどの腹立たしさ
本当の意味の「中道」という意味の大切さ
を両方考えて
頭の中ごちゃごちゃになってきた
っていう【じろーの面倒くさい話】でした。笑
いかがでしたでしょうか。
今夜も最後までお読みいただき本当にありがとうございました。
議員定数削減
定数も31に下げて、三党合意して
いよいよ…と思ったら
また国民民主党古川が
今度は企業団体献金の話を進めろと「先入れ先出し」?
そこちゃうやろ
はじめから法案進めるつもりなかったやろ
コイツらホンマにコロコロコロコロ…
マジでなめてんのか
おちょくってんのか
もう最初の45削減で行こ
知り合いやったらお前ら…
国会(議会)という小さな枠の中ですら
相手の話を聞かない、自分の意見を通すためなら手段を選ばない
言うことはコロコロ変える
そんな人間が
「議員定数削減すると国民の声を拾えない?」
まずは削減して欲しいという国民の意見聞きなさいよ
アホなのでサか?
あ、アホでしたね。
【じろーの面倒くさい話】
私は政治に興味があるというか……そんなたいそうな話やないんです。
正直言うて、派閥がどうとか誰が次のトップになるとか、あんな「政治ごっこ」のプロレスにはあんまり興味が持てない。
よく「政治に関心を持とう」なんて偉そうに言われるけど、「知らんがな…」って思うこともあるんです(笑)
でも、自分の住んでる国や町の制度、生活のしやすさ。 私たちは文句は言えど、現実には決められたルールに従って生活するしかないわけです。
政局には興味ないけど、ニュースを見てると無性に腹が立つ。
それって政治批判とか難しい思想の話やなくて、単純に「詐欺師やサボり魔に対する怒り」と同じなんです。
私たちは日々の暮らしの中で、コツコツ働いて、痛い思いをしながら税金を払っとるやないですか。 その金を無駄遣いされたり、懐に入れられたりしたら、「人の財布から金抜いて何しとんねん!」ってなるのは当たり前です。
「議員」という偉そうな肩書きをもらって、一般人より高い給料と特権をもらっておいて、やってることが私腹を肥やすことや、べらぼうな金の無駄遣い? そんなん普通に腹立つやん。
犯罪者に腹が立つのと同じやけど、「ルールを作る側の人間がそれやってどうすんねん!?」という二重の怒りですよ。
政治を語るのに、小難しい専門用語も派閥の相関図も別に要らんのです。
「こっちは金を払っとるんやから、ちゃんと仕事せえ」
ほんま、そこなんですわ。
このシンプルで当たり前の怒りを持つことこそが、生活者としてのまともな目線なんちゃうかと思います。
もちろん、怒りを汚い言葉でぶちまけるのがエエとは思いません。
何がアカンくて、どれならエエのか。
「それはエエやん!」と思えることを言うてるのは誰か、どの党か。
言うてることをコロコロ変えてへんか。
それらをちゃんと見て、「誰に、どこに託したら任せられるか」を見極める。
それこそが、私たちの生活を守るための「有権者としての仕事」なんやないかなと。
政治にただ文句を言うことだけが「政治に関心を持つ」ってことやない。
……と、そんなことを考えた今日の面倒くさい話でした。
【じろーの面倒くさい話】ショート
今日あなたは
誰のために、何のために
一生懸命生きますか?
わざわざ誰かに腹立てたり、誰かを責めたりするより
誰のために、何のために
生きるかを考える方が
きっと楽しい日になるやろね。
🤖 Made with AI
今日も書きました
【じろーの面倒くさい話】
「国民の声を拾えなくなる」という、よくできた言い訳について
どうぞ最後までご覧ください
#議員定数削減
【じろーの面倒くさい話】
「国民の声を拾えなくなる」という、よくできた言い訳について
また議員定数削減の話が持ち上がるたびに、決まって聞こえてくるお決まりのセリフがある。
「諸外国と比べても日本の議員数は決して多くない」
「定数を減らすと、国民の多様な声が政治に届かなくなる」
……いや、ちょっと待ってほしい。
その言葉を聞くたびに、私の頭の中にはどうしても消えない「面倒くさい疑問」が湧き上がるのだ。
そもそも、あなた方は日頃、どれだけ国民の声を拾っているのだろうか?
どこに投げればいいかも知らされていない「声」
「声を拾えなくなる」と言うからには、国中から集まる膨大な声を、今いる議員たちが総出で必死にすくい上げているような光景を思い浮かべる。
だが、冷静に周りを見渡してみてほしい。
普通の生活を送っている国民のいったい何割が、「自分の意見を政治に届ける具体的なルート」を知っていて、実際に使っているだろうか。
パブリックコメント? 各省庁や自治体の意見箱? 請願・陳情? それとも地元議員の事務所に突撃? 私のように調べるのが好きでアレコレ申し立ててみるタイプならともかく、大半の人は「どこに言えばいいかすら知らない」のが現実だ。
学校でも教わらないし、役所が親切に教えてくれるわけでもない。
結果として届いているのは、声を届けるノウハウと組織力を持った一部の業界団体や支持母体の声ばかり。
声を届ける回路すら整備せず、一般の声を放置しておきながら、定数削減の話になった時だけ「国民の声を拾うため」と持ち出すのは、いくらなんでも話が都合よすぎやしないか。
減らされたくないなら、減らして困る仕事をしろ
百歩譲って、議員の仕事が本当に国民にとって不可欠だとしよう。
だとしたら、なおさら順番がおかしい。
「定数を減らすな」と議員自身が声を荒らげる前に、やるべきことがあるはずだ。
「これだけ国民の声を吸い上げ、これだけの成果を出し、この人数がいないと国が回らない」という実績を、日頃の仕事で証明することだ。
もし本当にそれだけの働きをしていれば、削減案が出たときに「おいおい、あの議員たちを減らされたら俺たちの生活が困るぞ!」と、国民の側から反対の声が自然と上がる。
だが、現実はどうか。 削減案が出るたびに国民から「もっと削れ」「税金の無駄だ」と拍手が起きる。この事実そのものが、現在の議員活動に対する国民のリアルな通信簿ではないのか。
雇い主は誰なのか
サラリーマンの世界で、「人件費を削るべきか」を現場の社員が決めて「いや、俺たちの仕事が減ると困るから現状維持で」と言ったらどうなるか。即座にクビを傾げられるだろう。
議員は国民の「代理人」であり、雇い主は主権者である国民だ。 自分の身分や椅子を守るためのポジショントークを並べ立てる前に、「この人数で本当に国民のためになっているのか」を、雇い主である国民にこそ問うべきだ。
「国民の声を拾えなくなるから反対」ではない。 「国民の声を拾う気があるなら、減らされることを恐れる前に、減らせと言われないだけの仕事をしろ」。
……と、今日もまた居酒屋の隅で一人、面倒くさい正論を噛み締めている。
【じろーの面倒くさい話】
最後までお読みいただき本当にありがとうございました。
#議員定数削減
#野党
【じろーの面倒くさい話】
「国民の声を拾えなくなる」という、よくできた言い訳について
また議員定数削減の話が持ち上がるたびに、決まって聞こえてくるお決まりのセリフがある。
「諸外国と比べても日本の議員数は決して多くない」
「定数を減らすと、国民の多様な声が政治に届かなくなる」
……いや、ちょっと待ってほしい。
その言葉を聞くたびに、私の頭の中にはどうしても消えない「面倒くさい疑問」が湧き上がるのだ。
そもそも、あなた方は日頃、どれだけ国民の声を拾っているのだろうか?
どこに投げればいいかも知らされていない「声」
「声を拾えなくなる」と言うからには、国中から集まる膨大な声を、今いる議員たちが総出で必死にすくい上げているような光景を思い浮かべる。
だが、冷静に周りを見渡してみてほしい。
普通の生活を送っている国民のいったい何割が、「自分の意見を政治に届ける具体的なルート」を知っていて、実際に使っているだろうか。
パブリックコメント? 各省庁や自治体の意見箱? 請願・陳情? それとも地元議員の事務所に突撃? 私のように調べるのが好きでアレコレ申し立ててみるタイプならともかく、大半の人は「どこに言えばいいかすら知らない」のが現実だ。
学校でも教わらないし、役所が親切に教えてくれるわけでもない。
結果として届いているのは、声を届けるノウハウと組織力を持った一部の業界団体や支持母体の声ばかり。
声を届ける回路すら整備せず、一般の声を放置しておきながら、定数削減の話になった時だけ「国民の声を拾うため」と持ち出すのは、いくらなんでも話が都合よすぎやしないか。
減らされたくないなら、減らして困る仕事をしろ
百歩譲って、議員の仕事が本当に国民にとって不可欠だとしよう。
だとしたら、なおさら順番がおかしい。
「定数を減らすな」と議員自身が声を荒らげる前に、やるべきことがあるはずだ。
「これだけ国民の声を吸い上げ、これだけの成果を出し、この人数がいないと国が回らない」という実績を、日頃の仕事で証明することだ。
もし本当にそれだけの働きをしていれば、削減案が出たときに「おいおい、あの議員たちを減らされたら俺たちの生活が困るぞ!」と、国民の側から反対の声が自然と上がる。
だが、現実はどうか。 削減案が出るたびに国民から「もっと削れ」「税金の無駄だ」と拍手が起きる。この事実そのものが、現在の議員活動に対する国民のリアルな通信簿ではないのか。
雇い主は誰なのか
サラリーマンの世界で、「人件費を削るべきか」を現場の社員が決めて「いや、俺たちの仕事が減ると困るから現状維持で」と言ったらどうなるか。即座にクビを傾げられるだろう。
議員は国民の「代理人」であり、雇い主は主権者である国民だ。 自分の身分や椅子を守るためのポジショントークを並べ立てる前に、「この人数で本当に国民のためになっているのか」を、雇い主である国民にこそ問うべきだ。
「国民の声を拾えなくなるから反対」ではない。 「国民の声を拾う気があるなら、減らされることを恐れる前に、減らせと言われないだけの仕事をしろ」。
……と、今日もまた居酒屋の隅で一人、面倒くさい正論を噛み締めている。
【じろーの面倒くさい話】
最後までお読みいただき本当にありがとうございました。
#議員定数削減
#野党










