エンタメ/サブカル方面で活動するライターです。ITmedia「ねとらぼ」にて連載中。Yahoo!ニュース掲載実績あり。
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アニメ/マンガ/映画/2.5次元舞台/VTuber/リアルイベント
【執筆スタイル】
ニュース × 社会 ×作品批評
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・nlab.itmedia.co.jp/cont/arti…
ご相談はDMで。
Xで「男は~」、「女は~」と大きな主語で話をしている人たちはみな、男性であれ女性であれ、ある性別は全員が同じ個性を共有しているという発想が前提にある「性別主義者」なのだと思う(「性差別主義者」ではない)。同じような思想なのだから仲良くすればいいのに、どうしてケンカするのか。
韓国の有名作品をリメイクした日本のドラマを酷評するこのポストに山ほど引用が付いているのだが、思うに真の問題は、そもそも「良い演技」とは何か基準が示されていない点にある。
それぞれがそれぞれの観点から主観的批評を行っているだけで議論の土台が共有されていない。だからいつまで経っても話が進まない。
わかりやすいところでいうと、この芦田愛菜演じる自閉症の南田南弁護士の演技について「ギリギリ現実社会で通用するリアルな描写だ」という意見と「韓国版に比べて障害者らしく見えない」という対極の評価があって、どちらもまあわからないことはない。
しかし、そこでのほんとうの問題は、たとえば「そもそもドラマは現実性を指向するべきなのか、それとも個性を誇張して描くべきなのか」ということであって、さらにそこに「そうだとしたらそれはなぜか」という話が付随する。
だから、もし芦田さんの演技を「現実にもこういう子はいるので素晴らしい」と主張するなら「そもそも現実にいそうな演技が良いのか、そうだとしたらそれはなぜか」と考えてみると良い。
逆もそう。「自閉症らしく見えない」というのなら、そもそも「自閉症らしい」とは何か、なぜ「自閉症らしく」ないといけないのか深堀りして考えてみるべき。
もちろん、そういった深堀りを何重に繰りかえしたところで「正解」が出るわけではないし、必ず議論に勝てるようになるわけでもない。
しかし、自分のなかで深く深く考えた末に出てきた意見はそうではない意見とは重みが違う。
少なくともぼくはできるだけ深く考えたいし、まわりにも深く考えてほしいと思う。
おそらく芦田愛菜さんは自分の演技についてきわめて深く考えていることだろう。
そのうえで、複数のありえる選択肢のなかからこの演技を選んだ。
その姿勢を心からリスペクトし、ぼくもそういうふうでありたいと思うのだ。
あなたは、どう?
海燕(エンタメ系ライター/ねとらぼ連載中/Yahoo!ニュースほか掲載記事あり) retweeted
友よ、もちろん、日本の優れたアニメーションの多くは複雑な思想と内容を秘めているという意味で「政治的」だ。
しかし、むしろきわめて高度に政治的であるが故に、単一の政治活動を代表し、あるイデオロギーを象徴することはむずかしいのではないか、と多くの日本人が考えていることを理解してほしい。
まず、ぼくが話しておきたいのは『ONE PIECE』の「反権力」的とも見える行動理念は日本の数々のアニメ/マンガのさまざまな思想的葛藤の末に出てきたものだということだ。
あなたたちも存知の通り、日本は1945年に第二次世界大戦の敗戦国となった。
このことによって日本のフィクション、殊に「正義」をテーマにするエンターテインメント作品は大きな思想的屈折を抱え込むことになった。
日本という国全体がそれまで盲信していた「正義」が敗れ去るところを目にして、自分たちの正しさを盲信的に信頼することができなくなってしまったんだ。
その結果が、あるいはあなたたちも知っているかもしれない『デビルマン』や『風の谷のナウシカ』といった名作マンガだ。
これらの作品においては善悪はそもそも明確ではなく、さらには容易に逆転し、最終的にはきわめて暗く終末的なヴィジョンに至る。
こういった展開はそのクオリティのレベルこそ違っても日本のアニメーションやマンガには繰り返し繰り返し登場してきた。
わかってもらえるだろうか。日本では自分たち自身の正義をつねに深く疑うことが習性になっている国民性がエンターテインメントのレベルで染み込んでいるんだ。
結果として日本のエンターテインメントはアメリカとも中国とも違うある種複雑に折れ曲がったものに育った。その意味で日本のアニメはまさに「政治的」な現象だ。
その事実を、いささかも否定するつもりはない。
しかし、一方でそれは勧善懲悪を旨とするエンターテインメントとしては大きな問題を抱え込むことでもあった。
いったいだれが自分たちの正義を信じられない屈折したヒーローを支持しつづけるだろうか?
もちろん、一作や二作なら異色作として通用するだろうが、いつまでもそんな作品が多数にあったら?
日本においては、この問題は70年代から80年代の「ロボットアニメブーム」を通してあらわれ、85年の『機動戦士Ζガンダム』における発狂する主人公というヴィジョンで頂点に達した。
くわしくは省くが、それに続いたのが95年の『新世紀エヴァンゲリオン』だ。
こういった作品のなかでもはや主人公たちはヒーローとしての活動のモチベーションを維持することができず、ただうずくまるばかりにまでなったといえるかもしれない。
『ONE PIECE』は一面ではそういった歴史の末に出てきた作品なんだ(当然、じっさいにはもっと膨大な作品が絡む複雑な歴史が存在する。これはきわめて単純化した話だ)。
そうであるために、『ONE PIECE』の主人公ルフィは何よりも尊いものとして「自由」を掲げ、自分と仲間たちをいわゆる「正義のヒーロー」とは峻別する。
これは「正義」を掲げた瞬間にさまざまな政治思想的ジレンマが発生することを意識しているためであるように思える。
『ONE PIECE』の自由至上主義は決して無邪気で子供じみた理想ではなく、血まみれの思想闘争の伝統を背負っているのだといえる。
『コードギアス』だってそうだ。ルルーシュはまさに「反権力」のヒーローだが、かれのテロリズムは決して無垢ではありえない。かれの血塗られた行動がどこまで「正義」に則っているのか、いまでも日本では議論がある。
そしてフランスの友人たちよ、ぼくはあなたたちの生活の不満と日常の問題が深刻なものであり、いまや政治権力に対する信頼が崩壊していることを、ある程度のところまで理解しているつもりだ。
そのうえでぼくや、多くの日本人は平和裏なデモと並行していて起こっているように見える暴力的な活動がむしろ生活弱者を襲っているのではないかという深い懸念を抱いている。
御存知の通り、ルフィはつねに自分より強いものにだけ立ち向かっていった男だ。しかし、友よ、あなたたちの国の政治活動はより弱い者の生活をも巻き込んで拡大しているのではないだろうか。
そうだとしたら、それはきわめて哀しむべきことであるように思えるのだが。
ある人間が大いなる自由を求めれば、その結果として巻き込まれる人も出る。
実のところ、この問題は映画『ONE PIECE FILM RED』においてすでに指摘されていたことではある。
なので、ぼくは『ONE PIECE』と麦わらの一味の名のもとでデモが進行することが正しいものなのかどうか、明確に判断することができず、ただ緊張感を持ちながら注視している。
そうなのだ、友よ、『ONE PIECE』も『コードギアス』も『進撃の巨人』ももちろん壮絶な反逆と抵抗の物語であり、そこには最も深刻な意味での「政治性」がある。
だが、あなたもきっと『進撃の巨人』がどのような結末を迎えたかを記憶していると思う。
ぼくを含む多くの日本人が心配しているのは制御を超えた敵意と憎悪があのような救いのない結末へと問題を導いていくのではないかということなのだ。
もしそんなことはありえないというのなら、ぜひ、あなたの言い分を教えてほしい。Xの頼りない自動翻訳がどこまであてになるか、ぼくは確信を持てずにいるが、なるべく誠実に読むことを約束する。
それでは、このポストが届くことを祈って。
おやすみなさい。
友よ、もちろん、日本の優れたアニメーションの多くは複雑な思想と内容を秘めているという意味で「政治的」だ。
しかし、むしろきわめて高度に政治的であるが故に、単一の政治活動を代表し、あるイデオロギーを象徴することはむずかしいのではないか、と多くの日本人が考えていることを理解してほしい。
まず、ぼくが話しておきたいのは『ONE PIECE』の「反権力」的とも見える行動理念は日本の数々のアニメ/マンガのさまざまな思想的葛藤の末に出てきたものだということだ。
あなたたちも存知の通り、日本は1945年に第二次世界大戦の敗戦国となった。
このことによって日本のフィクション、殊に「正義」をテーマにするエンターテインメント作品は大きな思想的屈折を抱え込むことになった。
日本という国全体がそれまで盲信していた「正義」が敗れ去るところを目にして、自分たちの正しさを盲信的に信頼することができなくなってしまったんだ。
その結果が、あるいはあなたたちも知っているかもしれない『デビルマン』や『風の谷のナウシカ』といった名作マンガだ。
これらの作品においては善悪はそもそも明確ではなく、さらには容易に逆転し、最終的にはきわめて暗く終末的なヴィジョンに至る。
こういった展開はそのクオリティのレベルこそ違っても日本のアニメーションやマンガには繰り返し繰り返し登場してきた。
わかってもらえるだろうか。日本では自分たち自身の正義をつねに深く疑うことが習性になっている国民性がエンターテインメントのレベルで染み込んでいるんだ。
結果として日本のエンターテインメントはアメリカとも中国とも違うある種複雑に折れ曲がったものに育った。その意味で日本のアニメはまさに「政治的」な現象だ。
その事実を、いささかも否定するつもりはない。
しかし、一方でそれは勧善懲悪を旨とするエンターテインメントとしては大きな問題を抱え込むことでもあった。
いったいだれが自分たちの正義を信じられない屈折したヒーローを支持しつづけるだろうか?
もちろん、一作や二作なら異色作として通用するだろうが、いつまでもそんな作品が多数にあったら?
日本においては、この問題は70年代から80年代の「ロボットアニメブーム」を通してあらわれ、85年の『機動戦士Ζガンダム』における発狂する主人公というヴィジョンで頂点に達した。
くわしくは省くが、それに続いたのが95年の『新世紀エヴァンゲリオン』だ。
こういった作品のなかでもはや主人公たちはヒーローとしての活動のモチベーションを維持することができず、ただうずくまるばかりにまでなったといえるかもしれない。
『ONE PIECE』は一面ではそういった歴史の末に出てきた作品なんだ(当然、じっさいにはもっと膨大な作品が絡む複雑な歴史が存在する。これはきわめて単純化した話だ)。
そうであるために、『ONE PIECE』の主人公ルフィは何よりも尊いものとして「自由」を掲げ、自分と仲間たちをいわゆる「正義のヒーロー」とは峻別する。
これは「正義」を掲げた瞬間にさまざまな政治思想的ジレンマが発生することを意識しているためであるように思える。
『ONE PIECE』の自由至上主義は決して無邪気で子供じみた理想ではなく、血まみれの思想闘争の伝統を背負っているのだといえる。
『コードギアス』だってそうだ。ルルーシュはまさに「反権力」のヒーローだが、かれのテロリズムは決して無垢ではありえない。かれの血塗られた行動がどこまで「正義」に則っているのか、いまでも日本では議論がある。
そしてフランスの友人たちよ、ぼくはあなたたちの生活の不満と日常の問題が深刻なものであり、いまや政治権力に対する信頼が崩壊していることを、ある程度のところまで理解しているつもりだ。
そのうえでぼくや、多くの日本人は平和裏なデモと並行していて起こっているように見える暴力的な活動がむしろ生活弱者を襲っているのではないかという深い懸念を抱いている。
御存知の通り、ルフィはつねに自分より強いものにだけ立ち向かっていった男だ。しかし、友よ、あなたたちの国の政治活動はより弱い者の生活をも巻き込んで拡大しているのではないだろうか。
そうだとしたら、それはきわめて哀しむべきことであるように思えるのだが。
ある人間が大いなる自由を求めれば、その結果として巻き込まれる人も出る。
実のところ、この問題は映画『ONE PIECE FILM RED』においてすでに指摘されていたことではある。
なので、ぼくは『ONE PIECE』と麦わらの一味の名のもとでデモが進行することが正しいものなのかどうか、明確に判断することができず、ただ緊張感を持ちながら注視している。
そうなのだ、友よ、『ONE PIECE』も『コードギアス』も『進撃の巨人』ももちろん壮絶な反逆と抵抗の物語であり、そこには最も深刻な意味での「政治性」がある。
だが、あなたもきっと『進撃の巨人』がどのような結末を迎えたかを記憶していると思う。
ぼくを含む多くの日本人が心配しているのは制御を超えた敵意と憎悪があのような救いのない結末へと問題を導いていくのではないかということなのだ。
もしそんなことはありえないというのなら、ぜひ、あなたの言い分を教えてほしい。Xの頼りない自動翻訳がどこまであてになるか、ぼくは確信を持てずにいるが、なるべく誠実に読むことを約束する。
それでは、このポストが届くことを祈って。
おやすみなさい。
少しバズったが特に宣伝することもないのでべつのポストをぶら下げておく。もし良ければこっちも読んでいただけると、その、ありがたいんですが。
xitter.gq/kaien/status/211253757…
友よ、もちろん、日本の優れたアニメーションの多くは複雑な思想と内容を秘めているという意味で「政治的」だ。
しかし、むしろきわめて高度に政治的であるが故に、単一の政治活動を代表するイデオロギーを象徴することはむずかしいのではないか、と多くの日本人が考えていることを理解してほしい。
まず、ぼくが話しておきたいのは『ONE PIECE』の「反権力」的とも見える行動理念は日本の数々のアニメ/マンガのさまざまな思想的葛藤の末に出てきたものだということだ。
あなたたちも存知の通り、日本は1945年に第二次世界大戦の敗戦国となった。
このことによって日本のフィクション、殊に「正義」をテーマにするエンターテインメント作品は大きな思想的屈折を抱え込むことになった。
日本という国全体がそれまで盲信していた「正義」が敗れ去るところを目にして、自分たちの正しさを盲信的に信頼することができなくなってしまったんだ。
その結果が、あるいはあなたたちも知っているかもしれない『デビルマン』や『風の谷のナウシカ』といった名作マンガだ。
これらの作品においては善悪はそもそも明確ではなく、さらには容易に逆転し、最終的にはきわめて暗く終末的なヴィジョンに至る。
こういった展開はそのクオリティのレベルこそ違っても日本のアニメーションやマンガには繰り返し繰り返し登場してきた。
わかってもらえるだろうか。日本では自分たち自身の正義をつねに深く疑うことが習性になっている国民性がエンターテインメントのレベルで染み込んでいるんだ。
結果として日本のエンターテインメントはアメリカとも中国とも違うある種複雑に折れ曲がったものに育った。その意味で日本のアニメはまさに「政治的」な現象だ。
その事実を、いささかも否定するつもりはない。
しかし、一方でそれは勧善懲悪を旨とするエンターテインメントとしては大きな問題を抱え込むことでもあった。
いったいだれが自分たちの正義を信じられない屈折したヒーローを支持しつづけるだろうか?
もちろん、一作や二作なら異色作として通用するだろうが、いつまでもそんな作品が多数にあったら?
日本においては、この問題は70年代から80年代の「ロボットアニメブーム」を通してあらわれ、85年の『機動戦士Ζガンダム』における発狂する主人公というヴィジョンで頂点に達した。
くわしくは省くが、それに続いたのが95年の『新世紀エヴァンゲリオン』だ。
こういった作品のなかでもはや主人公たちはヒーローとしての活動のモチベーションを維持することができず、ただうずくまるばかりにまでなったといえるかもしれない。
『ONE PIECE』は一面ではそういった歴史の末に出てきた作品なんだ(当然、じっさいにはもっと膨大な作品が絡む複雑な歴史が存在する。これはきわめて単純化した話だ)。
そうであるために、『ONE PIECE』の主人公ルフィは何よりも尊いものとして「自由」を掲げ、自分と仲間たちをいわゆる「正義のヒーロー」とは峻別する。
これは「正義」を掲げた瞬間にさまざまな政治思想的ジレンマが発生することを意識しているためであるように思える。
『ONE PIECE』の自由至上主義は決して無邪気で子供じみた理想ではなく、血まみれの思想闘争の伝統を背負っているのだといえる。
『コードギアス』だってそうだ。ルルーシュはまさに「反権力」のヒーローだが、かれのテロリズムは決して無垢ではありえない。かれの血塗られた行動がどこまで「正義」に則っているのか、いまでも日本では議論がある。
そしてフランスの友人たちよ、ぼくはあなたたちの生活の不満と日常の問題が深刻なものであり、いまや政治権力に対する信頼が崩壊していることを、ある程度のところまで理解しているつもりだ。
そのうえでぼくや、多くの日本人は平和裏なデモと並行していて起こっているように見える暴力的な活動がむしろ生活弱者を襲っているのではないかという深い懸念を抱いている。
御存知の通り、ルフィはつねに自分より強いものにだけ立ち向かっていった男だ。しかし、友よ、あなたたちの国の政治活動はより弱い者の生活をも巻き込んで拡大しているのではないだろうか。
そうだとしたら、それはきわめて哀しむべきことであるように思えるのだが。
ある人間が大いなる自由を求めれば、その結果として巻き込まれる人も出る。
実のところ、この問題は映画『ONE PIECE FILM RED』においてすでに指摘されていたことではある。
なので、ぼくは『ONE PIECE』と麦わらの一味の名のもとでデモが進行することが正しいものなのかどうか、明確に判断することができず、ただ緊張感を持ちながら注視している。
そうなのだ、友よ、『ONE PIECE』も『コードギアス』も『進撃の巨人』ももちろん壮絶な反逆と抵抗の物語であり、そこには最も深刻な意味での「政治性」がある。
だが、あなたもきっと『進撃の巨人』がどのような結末を迎えたかを記憶していると思う。
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おやすみなさい。
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仕事でもないのにわりとマジメに書いたので、良ければ読んでみてください。仕事のほうはもちろん進んでいません……。おれはダメな人間だ……。
友よ、もちろん、日本の優れたアニメーションの多くは複雑な思想と内容を秘めているという意味で「政治的」だ。
しかし、むしろきわめて高度に政治的であるが故に、単一の政治活動を代表するイデオロギーを象徴することはむずかしいのではないか、と多くの日本人が考えていることを理解してほしい。
まず、ぼくが話しておきたいのは『ONE PIECE』の「反権力」的とも見える行動理念は日本の数々のアニメ/マンガのさまざまな思想的葛藤の末に出てきたものだということだ。
あなたたちも存知の通り、日本は1945年に第二次世界大戦の敗戦国となった。
このことによって日本のフィクション、殊に「正義」をテーマにするエンターテインメント作品は大きな思想的屈折を抱え込むことになった。
日本という国全体がそれまで盲信していた「正義」が敗れ去るところを目にして、自分たちの正しさを盲信的に信頼することができなくなってしまったんだ。
その結果が、あるいはあなたたちも知っているかもしれない『デビルマン』や『風の谷のナウシカ』といった名作マンガだ。
これらの作品においては善悪はそもそも明確ではなく、さらには容易に逆転し、最終的にはきわめて暗く終末的なヴィジョンに至る。
こういった展開はそのクオリティのレベルこそ違っても日本のアニメーションやマンガには繰り返し繰り返し登場してきた。
わかってもらえるだろうか。日本では自分たち自身の正義をつねに深く疑うことが習性になっている国民性がエンターテインメントのレベルで染み込んでいるんだ。
結果として日本のエンターテインメントはアメリカとも中国とも違うある種複雑に折れ曲がったものに育った。その意味で日本のアニメはまさに「政治的」な現象だ。
その事実を、いささかも否定するつもりはない。
しかし、一方でそれは勧善懲悪を旨とするエンターテインメントとしては大きな問題を抱え込むことでもあった。
いったいだれが自分たちの正義を信じられない屈折したヒーローを支持しつづけるだろうか?
もちろん、一作や二作なら異色作として通用するだろうが、いつまでもそんな作品が多数にあったら?
日本においては、この問題は70年代から80年代の「ロボットアニメブーム」を通してあらわれ、85年の『機動戦士Ζガンダム』における発狂する主人公というヴィジョンで頂点に達した。
くわしくは省くが、それに続いたのが95年の『新世紀エヴァンゲリオン』だ。
こういった作品のなかでもはや主人公たちはヒーローとしての活動のモチベーションを維持することができず、ただうずくまるばかりにまでなったといえるかもしれない。
『ONE PIECE』は一面ではそういった歴史の末に出てきた作品なんだ(当然、じっさいにはもっと膨大な作品が絡む複雑な歴史が存在する。これはきわめて単純化した話だ)。
そうであるために、『ONE PIECE』の主人公ルフィは何よりも尊いものとして「自由」を掲げ、自分と仲間たちをいわゆる「正義のヒーロー」とは峻別する。
これは「正義」を掲げた瞬間にさまざまな政治思想的ジレンマが発生することを意識しているためであるように思える。
『ONE PIECE』の自由至上主義は決して無邪気で子供じみた理想ではなく、血まみれの思想闘争の伝統を背負っているのだといえる。
『コードギアス』だってそうだ。ルルーシュはまさに「反権力」のヒーローだが、かれのテロリズムは決して無垢ではありえない。かれの血塗られた行動がどこまで「正義」に則っているのか、いまでも日本では議論がある。
そしてフランスの友人たちよ、ぼくはあなたたちの生活の不満と日常の問題が深刻なものであり、いまや政治権力に対する信頼が崩壊していることを、ある程度のところまで理解しているつもりだ。
そのうえでぼくや、多くの日本人は平和裏なデモと並行していて起こっているように見える暴力的な活動がむしろ生活弱者を襲っているのではないかという深い懸念を抱いている。
御存知の通り、ルフィはつねに自分より強いものにだけ立ち向かっていった男だ。しかし、友よ、あなたたちの国の政治活動はより弱い者の生活をも巻き込んで拡大しているのではないだろうか。
そうだとしたら、それはきわめて哀しむべきことであるように思えるのだが。
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実のところ、この問題は映画『ONE PIECE FILM RED』においてすでに指摘されていたことではある。
なので、ぼくは『ONE PIECE』と麦わらの一味の名のもとでデモが進行することが正しいものなのかどうか、明確に判断することができず、ただ緊張感を持ちながら注視している。
そうなのだ、友よ、『ONE PIECE』も『コードギアス』も『進撃の巨人』ももちろん壮絶な反逆と抵抗の物語であり、そこには最も深刻な意味での「政治性」がある。
だが、あなたもきっと『進撃の巨人』がどのような結末を迎えたかを記憶していると思う。
ぼくを含む多くの日本人が心配しているのは制御を超えた敵意と憎悪があのような救いのない結末へと問題を導いていくのではないかということなのだ。
もしそんなことはありえないというのなら、ぜひ、あなたの言い分を教えてほしい。Xの頼りない自動翻訳がどこまであてになるか、ぼくは確信を持てずにいるが、なるべく誠実に読むことを約束する。
それでは、このポストが届くことを祈って。
おやすみなさい。
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いまちょっと読んでみたけれど、冒頭からいきなり面白い。まだ3ページしか読んでいないので断定は避けるが、これは傑作かも。
私はこの亡命天使でラノベ作家デビューしましたが、実はもう担当編集がついていません。まず作品打ち切りが決まり、その後、自分も切られましたw
出版不況の昨今、実績のない新人に力は割けない。正しい判断だと思います。
そんな「終わっている」状況の私ですが、根拠なく、まだ何か起きそうな気がしているんですよね。
亡命天使は、もともと最後のつもりで電撃大賞に送り、落選した作品です。
これで小説書くのも最後だな、と思っていたら拾い上げで出版することになり、発売直後は売れなかったけど、半年以上経ってもたまにAmazonランキングを上昇し、ありがたいことに最近でもレビューが増え続けている。
いっそ諦めたら楽になれるのに、諦めさせてくれない、困った作品なのです。
本作には、簡単にはくたばらない、不思議な生命力があります。そして小説にとっての生命力とは、面白さと同義のはず!
『亡命天使』自信あるので、まだの方は是非読んでみてください!
Amazon
amazon.co.jp/dp/4049167069
bookwalker
bookwalker.jp/dea270dcbd-fca…
読書メーター(皆様のレビュー)
bookmeter.com/books/22992758
と、信じ込んでいるわけですね。疑うことを覚えようぜ。
Я понял в чем дело и из-за чего весь срач
Западная культура - это сомнения проверка и практика
Восточная - это всякие конфуции-хуюции и бесконечное повторение одного и того же без попыток поставить под сомнение
Поэтому японцы бесконечно повторяют аргумент про недополученную прибыль несмотря на то что он множество раз опровергался эмпирически. Но в их картине мира это и неважно для них если реальность не соответствует их представлениям о логичном тем хуже для реальности











