少し社会学の話をしたい。
「子どもを持ちたい」という願いは、なぜこれほどまでに切実なのか。
代理出産や子宮移植をめぐる議論では、しばしば個人の欲望として片づけられる。しかし、この問題を社会学者アンソニー・ギデンズの自己アイデンティティ論から考えると、違った姿が見えてくる。
ギデンズの理論は、代理出産や子宮移植を無条件に正当化するものではない。しかし、当事者の願いが自己アイデンティティや親密な関係と深く結びつくことを理解する手がかりになる。倫理を論じるなら、身体的リスクだけでなく、誰の自己決定を守り、誰に断念を求めているのかまで問うべきだ。
こうした問題意識から、代理出産をめぐる「搾取」や「倫理」という言葉が、当事者の自己決定とどのような関係にあるのかを考えた文章を書きました。
ギデンズの自己アイデンティティ論も踏まえながら、もう少し詳しく論じています。
note.com/a_puppet_master/n/n…
子宮移植をめぐる議論を見ていると、子どもを産めないことの苦しさがあまりにも軽く扱われていると感じます。先天的に子宮がなく、妊娠・出産を望んでも叶わなかった女性たちがいる。その切実な思いを理解しようともせず、「そこまでして産む必要があるのか」と問うことの残酷さを、もう少し考えるべき
身体的な負担も大きい。そんな子宮移植に人生の可能性を賭けたいと願う女性がいる。その切実さを理解しようともせず、「そこまでして産む必要があるのか」と問う第三者に、何を諦めるべきか決める権利があるのだろうか。当事者の願いを否定することから始まる倫理とは、いったい誰のためのものなのか。
「女性を守る」という倫理が、女性自身の意思や願いを否定してはいないだろうか。
子宮移植をめぐる議論では、提供を望む女性も、移植を待ち望む女性も、当事者の声が置き去りにされているように感じます。
そもそも何が倫理的な問題なのか。そこから問い直してみました。
note.com/a_puppet_master/n/n…
簡単に諦められる願いなら、生殖医療はここまで発展してこなかったと思う。「産めないなら養子縁組を」と簡単に言う人もいるけれど、当事者はそんなに簡単に諦められないからこそ苦しんでいる。諦めるよう求める側は何も失わない。人生の可能性を手放すのは、いつも諦めるよう求められる側なのだ。
子宮移植や代理出産の議論では、子宮のない女性自身の苦しみがあまりにも軽く扱われていると感じます。ドナーの負担や倫理的問題は熱心に議論される一方、なぜこうした医療が必要とされているのか。その出発点にある当事者の苦しみが、まるで最も重要でない問題であるかのように扱われていることが疑問
子宮ない女性のための子宮移植 臨床研究計画を申請 藤田医科大 asahi.com/articles/ASVBX1V7M…
子宮がない女性の出産を可能にするための子宮移植について、藤田医科大学のチームは28日、国が認定した学内の審査委員会に臨床研究の計画を申請したと発表した。申請は26日付。
そうか……悲しいなぁ
艦長……
俳優のパトリック・スチュワートさんが死去、86歳。『X-MEN』プロフェッサーX役などで知られる
news.denfaminicogamer.jp/new…
『スター・トレック』ピカード艦長役も演じ舞台や映像作品で活躍。英国の権威ある演劇賞「オリヴィエ賞」を3度受賞し、2010年にエリザベス2世女王からナイトの称号を授与された




