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Exploring Korean, East Asian, Southeast Asian, and world history through records and images. Follow along and share your thoughts!

Joined August 2026
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【韓国の未解決事件簿①】大邱・少年硫酸襲撃事件 失明した少年は、『太陽の勇者ファイバード』の韓国版主題歌を、病床で歌っていた。 「テワン、上手だね」 母親は、傷ついた息子にそう声をかけた。 1999年5月20日、韓国・大邱。 塾へ向かうキム・テワン君の背後から、何者かが髪をつかんだ。無理に口を開かせ、顔に硫酸を注ぎかけた。 硫酸は目と口の中に入った。少年は両目の視力を失い、体の約40%に重いやけどを負った。それでも、少年は相手について証言した。その要旨はこうだった。 「知っているおじさんだ」 襲われる前にその男性を見たこと、自分の名前を呼ばれたことも母親に話した。 両親は、苦しみの中で息子が語った言葉を録音して残した。 だが、犯人は逮捕されなかった。 7月8日、テワン君は亡くなった。 襲撃から49日後だった。 両親は、その後も犯人を追い続けた。事件は再び捜査されたが、起訴には至らなかった。 2015年7月10日、両親の不服申し立てを大法院が退けた。犯人を裁くための道は、時効によって閉ざされた。 そのわずか3週間後、7月31日。 一定の殺人事件の公訴時効を撤廃する改正法が施行された。 人々はこれを「テワン法」と呼んだ。 しかし、すでに時効が成立していたテワン君の事件には適用されなかった。 少年の名を冠した法律は、ほかの事件の犯人を裁く道を開いた。だが、彼を襲った犯人は裁かれなかった。 病床で歌った少年の声は残った。 その声を奪った者は、法廷に立たなかった。 犯人を裁けなくなっても、この事件を「終わった」ことにしてよいのだろうか?
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【戦争の不都合な真実】1592年、加藤清正が朝鮮の王子二人を捕らえた。だが、王子たちを差し出したのは日本軍ではなく、朝鮮の人々だった。 文禄の役。清正軍が迫る会寧で、国王・宣祖の息子、臨海君と順和君は脱出を図った。ところが地元の兵士たちは城門の鍵を握り、二人を外へ出さなかった。 さらに現地の役人・鞠景仁が宿舎を包囲。王子と臣下、その家族まで縛り上げて監禁し、清正に知らせた。 なぜ自国の王子を敵に売り渡したのか。 二人は兵を集めに来たはずが、王族の権勢を振りかざして住民の反感を買っていた。鞠景仁も朝廷に恨みを抱いていた。 1593年、二人は解放され帰国する。だが、民にとって悪夢は終わらなかった。 1600年、宣祖は順和君が殺人を繰り返し、父として罪を隠していたと認めた。1604年には女性二人の殺害も記録される。王の庇護のもと、重臣たちは口を閉ざした。 臨海君も1606年、殺人、土地や奴婢の強奪、民家の略奪で告発された。それでも宣祖は罷免を拒んだ。 あのとき二人が清正の手から戻らなければ、彼らに苦しめられた民は救われたのではないか。
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【戦争に取り残された人々】 中村輝夫 日本が降伏して29年。彼はまだジャングルにいた。 1974年12月、インドネシアのモロタイ島で、元日本兵の中村輝夫が発見された。 台湾の先住民族アミ族の出身で、日本統治下の台湾から日本軍に入った兵士だった。敗戦後も島に残り、密林に身を潜め続けていた。 1975年1月、彼は台湾へ帰った。故郷はすでに日本の統治下ではなく、彼も日本国籍を失っていた。台湾では「李光輝」という名で知られることになる。 ここで、帰還した日本人兵士との違いが表れた。 小野田寛郎や横井庄一には、軍歴に基づく年金である恩給が支給された。中村は同じ恩給制度の対象にはならなかった。 中村にも日本政府から200万円、閣僚らから150万円、計350万円の見舞金は贈られた。しかし、それは継続して受け取れる軍人年金とは別の、一度きりの支援だった。 彼の発見をきっかけに、台湾人元日本兵の補償問題が注目された。日本人の元戦友らも、台湾の仲間への補償を求めて動いた。 中村は1979年に亡くなった。 同じ日本軍の兵士だったのに、戦後の国籍が違えば、国の責任まで変わってよかったのだろうか?
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【朝鮮の未解決事件】 王妃の兄を殺した贈り物 「この中には福がある。他人には見せるな」 『梅泉野録』は、箱の届け人がそう告げたと記す。 1874年旧暦11月28日。王妃・閔氏の兄にあたる閔升鎬は、養母と幼い息子と食事をしていた。 そこへ、地方からの献上品のような小箱が届いた。届け人は内室へ運ぶよう求め、立ち去った。 閔升鎬が自ら鍵を開けた瞬間、箱が轟音とともに爆発した。 爆発は一家三代の命を奪った。王妃は兄と実母を失った。 疑いは、王の父・興宣大院君に向けられた。閔升鎬は、大院君を政権から退かせた側の有力者だった。 『梅泉野録』には、瀕死の閔升鎬が大院君の住む雲峴宮を繰り返し指さしたという話も残る。 だが、それは大院君の犯行を証明する証拠にはならなかった。 後に大院君に近い申哲均が事件に結びつけられ、処刑された。しかし『梅泉野録』は、彼が厳しい拷問に耐えかねて虚偽の自白をしたと伝える。 処刑によって事件は終わっても、箱の送り主と背後関係が確かになったわけではない。 王妃の家族を殺す箱を、誰が、何のために送り込んだのだろうか?
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【日中戦争】 兵士一人が消えた。それは大戦争の序幕だった。 1937年7月7日夜、北京郊外の盧溝橋付近。夜間演習中の日本軍が銃声を聞き、点呼を取ると兵士が一人足りなかった。 日本側は捜索のため宛平県城への立ち入りを求め、中国側との交渉が始まった。 ところが、兵士はほどなく戻った。その情報は大隊本部などへの伝達が遅れ、緊張を高める一因となった。 翌8日未明、再び銃声が報告されると、聯隊長の牟田口廉也は戦闘開始を命じた。日本軍は中国軍への攻撃に踏み切った。 交渉が進んでも、衝突は繰り返された。 10日夕、撤収命令の後に再び交戦が起きると、牟田口は独断で攻撃を命じた。現場に到着した上官の河辺正三旅団長は、その処置を黙認した。 停戦交渉と増援、そして新たな衝突が重なり、7月末には日本軍が北京・天津地域を制圧。8月には上海でも大規模な戦闘が始まった。 盧溝橋の衝突は、1945年まで続く全面戦争の発端となった。 牟田口と河辺は7年後、インパールでも軍司令官と方面軍司令官として再び上下関係に立つ。 消えた兵士は戻っていた。だが、拡大する戦争を止める決断はできなかった。 あの夜から全面戦争に至るまで、戦争を止める機会は何度あったのだろうか?
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【Vietnam War】 Her Daughter Died at 27. Her Diary Arrived 35 Years Later. “Fred, don’t burn this. It has fire in it already.” U.S. soldier Frederic Whitehurst later recalled those words from his South Vietnamese interpreter, Nguyễn Trung Hiếu. They were sorting captured enemy documents for destruction. The diary belonged to Đặng Thùy Trâm, a young communist doctor treating wounded soldiers in central Vietnam. She wrote about operations with scarce medicine, patients she could not save, anger at the Americans, and longing for home. On 22 June 1970, American troops killed her. She was 27. Two days earlier, she had written of wanting her mother’s hand to comfort her. Whitehurst took her notebooks home. His brother helped translate them. For decades, the family who should have read them remained beyond their reach. Then, in 2005, a scanned copy traveled to Hanoi with another American veteran, Ted Engelmann. Writer Lady Borton and Vietnamese colleagues helped locate Trâm’s family. Her mother recognized the handwriting. In letters home, her daughter had spared her the worst. The diary revealed suffering she had never imagined. Some passages were still too painful for her to read. After considering publication, the family agreed to share the diary. It appeared in Vietnam that July. A South Vietnamese interpreter had urged an American soldier to preserve a communist woman’s words. Thirty-five years later, her mother could finally read them. What would it feel like to hear your daughter’s voice again through her writing, thirty-five years after losing her?
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【日本海軍の悪人伝】 軍艦を爆破し、陸から眺めていた男 1912年11月18日、清水港に停泊する日本海軍の巡洋艦「日進」で火薬庫が爆発した。死者2人、負傷者17人。迅速な注水で沈没は免れた。 海軍の査問会は、わずか10日間の調査で火薬の自然発火と結論づけた。 しかし、その爆発には犯人がいた。 昇進や待遇に不満を抱いていた、同艦の二等兵曹だった。彼は事前に艦長へ「演習中大騒動ヲ惹起セシム」という匿名の脅迫状まで送っていた。 やがて火薬庫に放火して上陸し、海岸近くの飲食店から爆発を見届けた。 真相が発覚したのは、翌年の別の事件からだった。舞鶴で人力車の乗客を射殺し、金を奪った男が逮捕された。その男こそ、日進の元乗組員だった。 彼は取り調べで、軍艦を爆破したことも自白した。 1914年、艦船破壊未遂と殺人の罪で死刑判決。自然発火という海軍の説明は、軍法会議の判決で覆された。 もし別の殺人事件で捕まらなければ、この爆発は今も「自然発火」のままだったのだろうか。
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【Vietnam’s Heroines】 Bùi Thị Xuân Vietnam’s King Wanted to Retreat. His Female General Seized the Reins. At a Vietnamese fort in 1802, a king wanted to withdraw. Bùi Thị Xuân grabbed his horse’s reins and urged him to continue the attack. She was a general of the Tây Sơn dynasty. The account survives in the histories of the Nguyễn—the enemy that defeated her. Their records describe her riding an elephant and driving her troops into desperate combat. The struggle lasted from morning until noon. Defenders fired from the fortifications and hurled stones down from the heights. She kept attacking. Her dynasty was fighting for its survival. In 1801, Nguyễn Ánh had captured its capital, Phú Xuân, now Huế. The Tây Sơn king fled north, then returned with an army to recover what he had lost. The Nguyễn chronicle records that Bùi Thị Xuân brought 5,000 troops. At Trấn Ninh, she tried to keep the offensive alive. Then news arrived: Nguyễn forces had defeated the Tây Sơn fleet. The infantry broke. The king fled. Later that year, she and her husband, General Trần Quang Diệu, were captured and executed. Nguyễn Ánh founded the Nguyễn dynasty as Emperor Gia Long. She could not save the Tây Sơn. Yet her resistance survives in the records of the dynasty that destroyed it. When even the king wants to retreat, how far should a commander go to keep fighting?
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【朝鮮の美女】 李蘭香 「顔立ちがよく、立ち居振る舞いが美しく、声も澄んでいた」 1936年の雑誌『三千里』は、イ・ナニャンをこう評した。美貌だけでなく、歌や踊りの才能でも名を馳せた女性だった。 平壌出身の彼女は、1913年、まだ少女だった頃にソウル行きの汽車に乗った。母から聞かされていたのは、王の前で歌や舞を披露する宴への出演だった。 彼女はキーセンとして芸を磨き、名人・河圭一に伝統音楽を学んだ。やがて朝鮮券番では、後進を指導する立場にまで上り詰めた。 1932年のレコードには、彼女自身の歌声が今も残っている。結婚してキーセンの仕事を離れた後も、歌の稽古を続けた。 さらに1970年から翌年にかけて、新聞に回想を連載。華やかな宴席や、そこに生きた女性たちの世界を、自らの言葉で書き残した。 写真には美貌が、レコードには声が、回想には彼女が見た時代が残った。 百年前の彼女の美しさは、今の皆さんの目にはどう映りますか?
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【日本の義人】命のビザを書き続けた外交官。その帰国後に待っていたもの。 1940年、リトアニアの日本領事館前に大勢のユダヤ人難民が集まった。ナチスの迫害から逃れた人々だった。 脱出には、日本を通過するビザが必要だった。 副領事の杉原千畝は、本省の指示が求める条件を満たさない人々にもビザを発給した。領事館が閉まるまで書き続け、その数は2,000通を超えた。 ビザを手にした難民の中には、ソ連を横断し、日本を経由して逃れた人々がいた。 しかし、杉原自身にも苦難が待っていた。 戦後、家族とともにソ連側に抑留され、1947年に帰国。同じ年に外務省を去った。帰国後には幼い息子も病で亡くした。 その後は生計のため、一時は電球を売るなどさまざまな仕事に就き、モスクワの日本企業でも長く働いた。 人々を救った行為が国際的に大きく評価されるまでには、長い年月がかかった。 1985年、イスラエルのヤド・ヴァシェムは杉原を「諸国民の中の正義の人」として顕彰した。彼が亡くなったのは、その翌年だった。 危険を顧みず命を救った人を、私たちは生きているうちに十分に支えられていただろうか?
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【한국의 미제사건부①】대구 어린이 황산테러 사건 시력을 잃은 소년은 병상에서 《지구용사 선가드》의 주제곡을 불렀다. 일본 애니메이션 《태양의 용자 파이버드》의 한국 방영판이었다. “우리 태완이 참 잘하네.” 어머니는 상처 입은 아들에게 그렇게 말을 건넸다. 1999년 5월 20일, 대구. 학원에 가던 김태완 군의 뒤에서 누군가 머리카락을 잡아당겼다. 억지로 입을 벌리게 한 뒤 얼굴에 황산을 쏟아부었다. 황산은 눈과 입안으로 들어갔다. 태완이는 두 눈의 시력을 잃고 몸의 약 40%에 심한 화상을 입었다. 그런데도 태완이는 자신을 공격한 사람에 대해 말했다. 진술의 요지는 이랬다. “아는 아저씨다.” 공격당하기 전에 그 남성을 봤고, 자신의 이름을 불렀다는 사실도 어머니에게 이야기했다. 부모는 고통 속에서 아들이 꺼낸 말을 녹음해 남겼다. 그러나 범인은 검거되지 않았다. 7월 8일, 태완이는 숨졌다. 공격을 당한 지 49일 만이었다. 부모는 그 뒤에도 범인을 찾기 위해 싸웠다. 사건은 다시 수사됐지만 기소로 이어지지 못했다. 2015년 7월 10일, 대법원이 부모의 재항고를 기각했다. 범인을 법정에 세울 길은 공소시효에 가로막혔다. 불과 3주 뒤인 7월 31일, 일정한 살인범죄의 공소시효를 폐지하는 개정법이 시행됐다. 사람들은 이를 ‘태완이법’이라고 불렀다. 그러나 이미 공소시효가 완성된 태완이 사건에는 적용되지 않았다. 소년의 이름을 딴 법은 다른 사건의 범인을 처벌할 길을 열었다. 정작 그를 공격한 범인은 처벌받지 않았다. 병상에서 노래하던 소년의 목소리는 남았다. 그 목소리를 빼앗은 자는 법정에 서지 않았다. 범인을 처벌할 수 없게 됐다고 해서, 이 사건을 끝난 일로 여겨도 되는 것일까?
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【日本の女傑】最後まで戦場に残った、美しく勇猛な女武者。 その名は巴御前。『平家物語』に登場する女性だ。 物語は彼女を、色白で長い髪を持つ美しい女性として描く。同時に、弓と刀に優れ、一人で千人に匹敵するほどの武者だったと伝える。 1184年、仕えていた木曽義仲の軍は敗れた。兵が次々と倒れ、わずか五騎になっても、巴は主君のそばにいた。 だが義仲は彼女に去るよう命じた。自分の最後の戦いに女を連れていたと言われたくなかったのだ。 巴はすぐには去らなかった。 敵の一団が現れると、その中に駆け入り、敵の武者を馬から引き倒して首を取った。 そして武具を脱ぎ捨て、東国へ落ち延びた。義仲はその後、戦場で命を落とす。 巴御前が実在したのか、その最後の戦いが事実だったのかは分かっていない。それでも彼女の名は、何百年もの間、日本で語り継がれてきた。 あなたはこの女武者の物語をどう思いますか?
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【日本軍の悪人伝】人肉を食べたと証言された男は、戦後、国会議員になった。 その名は辻政信。旧日本軍の参謀だった。 1939年のノモンハン事件で作戦拡大を主張した彼は、日本軍が大敗すると、部下に責任を押し付け、自決を強要した。 1942年、日本軍がシンガポールを占領すると、抗日的と見なされた華人が選別され、大勢が殺害された。辻はこの「華僑粛清」に関与した人物として名が挙がっている。 フィリピンでも、米軍やフィリピン軍の捕虜を殺すよう促したとされる。 さらにビルマ戦線では、連合軍の飛行士の肉を食べたという証言も残された。だが、肉が本当に人肉だったのかを含め、伝えられる内容には食い違いがある。 終戦後、辻は追及を逃れ、僧侶に変装して潜伏。中国を経由して日本へ戻った。 潜伏生活を描いた『潜行三千里』はベストセラーになった。 戦争犯罪で裁かれることなく、1952年には衆議院議員に当選。後に参議院議員にもなった。 1961年、ラオスへ渡った辻は姿を消す。その後の消息は今も分かっていない。 虐殺に関与したとされる男は、なぜ戦後の日本で国会議員になれたのか?
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George H. W. Bush Escaped. Eight U.S. Airmen Were Murdered. Four of Their Bodies Were Cannibalized by Japanese Officers. Chichijima, 1944: The Japanese Military's Cannibalism War Crimes. On September 2, 1944, Japanese antiaircraft fire struck a U.S. Navy bomber over Chichijima. Its 20-year-old pilot completed his attack, flew the damaged aircraft out over the sea, and parachuted into the water. Japanese boats tried to reach him. U.S. fighters drove them away. After four hours at sea, the submarine USS Finback rescued him. That pilot was George H. W. Bush, the future U.S. president. His two crewmates never returned. Other American airmen were captured during separate missions around the same island. Eight fell into Japanese hands. They were interrogated, then murdered—beheaded, bayoneted or beaten to death. For four of them, death was not the end. Japanese military personnel removed flesh and organs from their bodies. Officers ate the remains. After Japan surrendered, the island's commanders ordered records destroyed and prepared a false story: the prisoners had died in American bombing raids. But investigators uncovered the killings. Major Sueo Matoba confessed to taking part in three acts of cannibalism. Asked whether he considered himself a cannibal, he answered: “Yes, I was a madman due to the war.” In 1946, General Yoshio Tachibana and other Japanese personnel faced war-crimes trials on Guam. Tachibana was executed in 1947. Bush escaped Chichijima and eventually entered the White House. All eight U.S. airmen captured on the island were murdered. Japanese officers removed and ate flesh and organs from four of their bodies.
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【戦争の不都合な真実】戦争の傷は、かつて処罰と嘲笑、侮辱の対象だった。 「もう耐えられません」 イギリス兵ハリー・ファーは、塹壕に戻る命令を拒んだ。彼はすでにシェルショックで治療を受けていた。 上官は彼を臆病者と呼び、銃殺すると脅した。 1916年、ソンムの戦いのさなかだった。ファーは前年にシェルショックと診断され、数か月入院していた。1916年にも神経症状で二度治療を受けた。 そんな彼に、再び前線へ向かう命令が下された。 ファーは逮捕され、軍法会議にかけられた。彼を治療した軍医は重傷を負い、証言できなかった。 前線を離れた後、なぜ病気を申し出なかったのかと問われ、ファーは砲撃から離れると気分がよくなったからだと答えた。 軍法会議は臆病の罪で彼に死刑を宣告した。ファーはイギリス軍の銃殺隊によって処刑された。 第一次世界大戦は、軍隊と医師たちに戦争による心の傷を大規模に突きつけた。兵士の中には激しく震え、眠れなくなり、言葉を失う者もいた。多くが治療を受けたが、治療の目的は兵士を再び任務に戻すことでもあった。 医師たちがシェルショックを研究する一方で、戦えなくなった兵士は処罰されることもあった。 ファーの家族は、彼の名誉を回復するため何十年も声を上げ続けた。2006年、ファーを含む第一次世界大戦中に処刑された数百人の兵士が、死後に恩赦を受けた。 現在のPTSDという診断名がアメリカの精神疾患診断マニュアルに登場したのは、1980年のことだった。 戦争の傷に苦しみながら、助けられる代わりに臆病者とされた兵士は、いったい何人いたのだろうか?
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【奇妙な人物】日本と手を組んだ男は、インドでは独立の英雄だった。 その名はスバス・チャンドラ・ボース。イギリスの植民地支配からインドを解放するため、武力による独立を目指した。 第二次世界大戦中、彼はまずナチス・ドイツに支援を求めた。そして1943年、ドイツと日本の潜水艦を乗り継いでアジアへ向かった。 シンガポールに到着したボースは、日本の支援を受けていたインド国民軍を率いた。兵士には日本軍の捕虜となった元英印軍兵士もいた。 彼らは日本軍とともに、イギリス軍が守るインドへ進もうとした。だが1944年のインパール作戦は失敗し、独立への道は開かれなかった。 日本軍はアジア各地を占領し、多くの人々に苦しみをもたらしていた。それでもボースはインド独立のために日本と手を組み、1943年の大東亜会議では、日本が新しく自由なアジアを導くと称賛した。 現在のインドでは、彼の誕生日を政府が記念し、独立運動への貢献をたたえている。 自国の独立のためなら、反人道的な犯罪を犯した侵略国を称賛してもよいのだろうか?
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Wir Deutschen wissen, wie schmerzhaft die Teilung eines Landes ist. Wir wissen auch: Wer fest zu seinen Werten steht und den Mut zum Dialog hat, kann Mauern einreißen. Deutschland steht an der Seite der Republik Korea. Wir wünschen den Menschen in Korea Einheit in Freiheit.
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Deutschland und Südkorea sind wehrhafte Demokratien. Wir wissen, wie schmerzhaft es ist, in einem geteilten Land zu leben. Präsident @Jaemyung_Lee und ich heben unsere Beziehungen heute auf eine neue Stufe: Wir werden strategische Partner in Sicherheit, Handel und KI.
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Japanese police ordered Vietnamese students to write home: they were coming back. Those who refused were threatened with arrest and handover to the French embassy, according to a later account by Phan Boi Chau. The students had come to Japan to help free their country from French rule. In 1905, Phan travelled to Japan seeking support. That same year, Japan defeated Russia—an Asian victory over a European power that inspired Vietnamese nationalists. Instead of receiving immediate military aid, Phan helped organize a movement to educate young Vietnamese in Japan. It was called Dong Du: “Journey to the East.” Students crossed the sea through Hong Kong. They studied Japanese and other subjects; some received military training. They hoped to bring what they learned back to the struggle for independence. At its height, about 200 Vietnamese students were in Japan. But Japan was strengthening relations with France, the very power ruling Vietnam. French officials wanted the movement stopped. In September 1908, Japan ordered the Vietnamese students to leave. Many returned home; others went to China or Siam. Some remained in Japan under assumed names. By 1909, Phan himself had been forced to leave. The young people who crossed the sea to learn how to free their country now had to find another way to continue their struggle. What happens when the country you look to for help chooses to work with the power ruling your homeland?
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日本の「夜這い」――夜に女性を訪ねた男たち 夜、男たちは提灯を持ち、山を越えて女のもとへ向かった。遠い家までは二里、三里もあったという。 かつて日本にあった「夜這い」という風習だ。 愛媛県の旧柳谷村の村誌には、昭和初期まで若者たちが二、三人で連れ立ち、遠くの女性を訪ねたと記されている。 娘の親も黙認することが多く、結婚につながる場合もあったという。 夜の訪問は、交際や性的な関係に発展することもあった。いつも結婚が目的だったわけではない。 だが、夜這いの形は地域によって違った。 徳島県神山町の聞き取りには、家に入れてもらえなければ嫌がらせをしたという昔話も残っている。 牛小屋を開け、家の人が牛を追う隙に忍び込んだという話もある。 女性の望みがいつも尊重されていたとは限らない。 一方、古い日本語の「よばひ」には、女性に求婚するという意味があった。『万葉集』にもその言葉が見られる。 村の決まりの中で、女性たちはこの風習をどう受け止めていたのだろうか。
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