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Exploring Korean, East Asian, Southeast Asian, and world history through records and images. Follow along and share your thoughts!

Joined August 2026
【韓国の悪人】2歳の娘を置き去りにして死なせた母親。ところがDNA鑑定で、彼女は母親ではなく実の姉だと判明した。 では、本当の母親は誰だったのか。 なんと、祖母だと思われていた女性だった。 2020年8月、韓国・亀尾市。29か月の女児を育てていた女性は、幼い子供を部屋に残し、恋人との生活を始めた。 少女は一人では食べ物も水も手に入れられない。助けを求めることもできず、部屋に取り残されたまま命を落とした。 2021年2月、祖母とされていた女性が部屋を訪れ、腐敗した遺体を発見した。少女は死亡してから数か月が経過していた。 子供を置き去りにした女性には、殺人罪で懲役20年が確定した。 しかしDNA鑑定は、家族関係を根底から覆した。 少女の実の母親は、祖母とされていた女性。育ての母親は実の姉だった。 さらに不可解なのは、姉が実際に産んだ子供の行方が分からないことだ。 警察は新生児の入れ替えを疑ったが、裁判では立証されず、無罪が確定した。 一人の少女は誰にも助けられずに死んだ。もう一人の子供の行方は、今も明らかになっていない。 では、姉が産んだ子供は、いったいどこへ消えたのか。
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【韓国の未解決事件】息子はすでに殺されていた。それを知らない両親に、犯人は何週間も電話をかけ続けた。 1991年1月29日、ソウル。9歳の少年イ・ヒョンホが自宅近くの遊び場から姿を消した。 その夜、男から電話が入った。身代金は7000万ウォン。男は公衆電話を使い、金の受け渡し場所を何度も変えた。 両親は息子が生きていると信じ、必死に指示に従った。警察も追跡したが、空港の防犯カメラに映った男の映像は消去され、金を持ち去る犯人も取り逃がした。 3月13日、少年は漢江沿いの排水路で遺体となって発見された。口と鼻はテープで塞がれていた。 そして、恐ろしい事実が判明した。 少年は誘拐された当日に殺害されたとみられた。犯人はすでに死んでいた子供を返すと装い、何週間も両親に身代金を要求していたのだ。 脅迫電話の録音は46件。犯人の声は残された。それでも正体は分からず、2006年に公訴時効が成立した。 声も残り、金を取りに現れたことさえあった犯人を、なぜ捕まえられなかったのか。
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【戦争の不都合な真実】1592年、加藤清正が朝鮮の王子二人を捕らえた。だが、王子たちを差し出したのは日本軍ではなく、朝鮮の人々だった。 文禄の役。清正軍が迫る会寧で、国王・宣祖の息子、臨海君と順和君は脱出を図った。ところが地元の兵士たちは城門の鍵を握り、二人を外へ出さなかった。 さらに現地の役人・鞠景仁が宿舎を包囲。王子と臣下、その家族まで縛り上げて監禁し、清正に知らせた。 なぜ自国の王子を敵に売り渡したのか。 二人は兵を集めに来たはずが、王族の権勢を振りかざして住民の反感を買っていた。鞠景仁も朝廷に恨みを抱いていた。 1593年、二人は解放され帰国する。だが、民にとって悪夢は終わらなかった。 1600年、宣祖は順和君が殺人を繰り返し、父として罪を隠していたと認めた。1604年には女性二人の殺害も記録される。王の庇護のもと、重臣たちは口を閉ざした。 臨海君も1606年、殺人、土地や奴婢の強奪、民家の略奪で告発された。それでも宣祖は罷免を拒んだ。 あのとき二人が清正の手から戻らなければ、彼らに苦しめられた民は救われたのではないか。
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【戦争に取り残された人々】 中村輝夫 日本が降伏して29年。彼はまだジャングルにいた。 1974年12月、インドネシアのモロタイ島で、元日本兵の中村輝夫が発見された。 台湾の先住民族アミ族の出身で、日本統治下の台湾から日本軍に入った兵士だった。敗戦後も島に残り、密林に身を潜め続けていた。 1975年1月、彼は台湾へ帰った。故郷はすでに日本の統治下ではなく、彼も日本国籍を失っていた。台湾では「李光輝」という名で知られることになる。 ここで、帰還した日本人兵士との違いが表れた。 小野田寛郎や横井庄一には、軍歴に基づく年金である恩給が支給された。中村は同じ恩給制度の対象にはならなかった。 中村にも日本政府から200万円、閣僚らから150万円、計350万円の見舞金は贈られた。しかし、それは継続して受け取れる軍人年金とは別の、一度きりの支援だった。 彼の発見をきっかけに、台湾人元日本兵の補償問題が注目された。日本人の元戦友らも、台湾の仲間への補償を求めて動いた。 中村は1979年に亡くなった。 同じ日本軍の兵士だったのに、戦後の国籍が違えば、国の責任まで変わってよかったのだろうか?
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【朝鮮の未解決事件】 王妃の兄を殺した贈り物 「この中には福がある。他人には見せるな」 『梅泉野録』は、箱の届け人がそう告げたと記す。 1874年旧暦11月28日。王妃・閔氏の兄にあたる閔升鎬は、養母と幼い息子と食事をしていた。 そこへ、地方からの献上品のような小箱が届いた。届け人は内室へ運ぶよう求め、立ち去った。 閔升鎬が自ら鍵を開けた瞬間、箱が轟音とともに爆発した。 爆発は一家三代の命を奪った。王妃は兄と実母を失った。 疑いは、王の父・興宣大院君に向けられた。閔升鎬は、大院君を政権から退かせた側の有力者だった。 『梅泉野録』には、瀕死の閔升鎬が大院君の住む雲峴宮を繰り返し指さしたという話も残る。 だが、それは大院君の犯行を証明する証拠にはならなかった。 後に大院君に近い申哲均が事件に結びつけられ、処刑された。しかし『梅泉野録』は、彼が厳しい拷問に耐えかねて虚偽の自白をしたと伝える。 処刑によって事件は終わっても、箱の送り主と背後関係が確かになったわけではない。 王妃の家族を殺す箱を、誰が、何のために送り込んだのだろうか?
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【日中戦争】 兵士一人が消えた。それは大戦争の序幕だった。 1937年7月7日夜、北京郊外の盧溝橋付近。夜間演習中の日本軍が銃声を聞き、点呼を取ると兵士が一人足りなかった。 日本側は捜索のため宛平県城への立ち入りを求め、中国側との交渉が始まった。 ところが、兵士はほどなく戻った。その情報は大隊本部などへの伝達が遅れ、緊張を高める一因となった。 翌8日未明、再び銃声が報告されると、聯隊長の牟田口廉也は戦闘開始を命じた。日本軍は中国軍への攻撃に踏み切った。 交渉が進んでも、衝突は繰り返された。 10日夕、撤収命令の後に再び交戦が起きると、牟田口は独断で攻撃を命じた。現場に到着した上官の河辺正三旅団長は、その処置を黙認した。 停戦交渉と増援、そして新たな衝突が重なり、7月末には日本軍が北京・天津地域を制圧。8月には上海でも大規模な戦闘が始まった。 盧溝橋の衝突は、1945年まで続く全面戦争の発端となった。 牟田口と河辺は7年後、インパールでも軍司令官と方面軍司令官として再び上下関係に立つ。 消えた兵士は戻っていた。だが、拡大する戦争を止める決断はできなかった。 あの夜から全面戦争に至るまで、戦争を止める機会は何度あったのだろうか?
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【Vietnam War】 Her Daughter Died at 27. Her Diary Arrived 35 Years Later. “Fred, don’t burn this. It has fire in it already.” U.S. soldier Frederic Whitehurst later recalled those words from his South Vietnamese interpreter, Nguyễn Trung Hiếu. They were sorting captured enemy documents for destruction. The diary belonged to Đặng Thùy Trâm, a young communist doctor treating wounded soldiers in central Vietnam. She wrote about operations with scarce medicine, patients she could not save, anger at the Americans, and longing for home. On 22 June 1970, American troops killed her. She was 27. Two days earlier, she had written of wanting her mother’s hand to comfort her. Whitehurst took her notebooks home. His brother helped translate them. For decades, the family who should have read them remained beyond their reach. Then, in 2005, a scanned copy traveled to Hanoi with another American veteran, Ted Engelmann. Writer Lady Borton and Vietnamese colleagues helped locate Trâm’s family. Her mother recognized the handwriting. In letters home, her daughter had spared her the worst. The diary revealed suffering she had never imagined. Some passages were still too painful for her to read. After considering publication, the family agreed to share the diary. It appeared in Vietnam that July. A South Vietnamese interpreter had urged an American soldier to preserve a communist woman’s words. Thirty-five years later, her mother could finally read them. What would it feel like to hear your daughter’s voice again through her writing, thirty-five years after losing her?
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【日本海軍の悪人伝】 軍艦を爆破し、陸から眺めていた男 1912年11月18日、清水港に停泊する日本海軍の巡洋艦「日進」で火薬庫が爆発した。死者2人、負傷者17人。迅速な注水で沈没は免れた。 海軍の査問会は、わずか10日間の調査で火薬の自然発火と結論づけた。 しかし、その爆発には犯人がいた。 昇進や待遇に不満を抱いていた、同艦の二等兵曹だった。彼は事前に艦長へ「演習中大騒動ヲ惹起セシム」という匿名の脅迫状まで送っていた。 やがて火薬庫に放火して上陸し、海岸近くの飲食店から爆発を見届けた。 真相が発覚したのは、翌年の別の事件からだった。舞鶴で人力車の乗客を射殺し、金を奪った男が逮捕された。その男こそ、日進の元乗組員だった。 彼は取り調べで、軍艦を爆破したことも自白した。 1914年、艦船破壊未遂と殺人の罪で死刑判決。自然発火という海軍の説明は、軍法会議の判決で覆された。 もし別の殺人事件で捕まらなければ、この爆発は今も「自然発火」のままだったのだろうか。
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【Vietnam’s Heroines】 Bùi Thị Xuân Vietnam’s King Wanted to Retreat. His Female General Seized the Reins. At a Vietnamese fort in 1802, a king wanted to withdraw. Bùi Thị Xuân grabbed his horse’s reins and urged him to continue the attack. She was a general of the Tây Sơn dynasty. The account survives in the histories of the Nguyễn—the enemy that defeated her. Their records describe her riding an elephant and driving her troops into desperate combat. The struggle lasted from morning until noon. Defenders fired from the fortifications and hurled stones down from the heights. She kept attacking. Her dynasty was fighting for its survival. In 1801, Nguyễn Ánh had captured its capital, Phú Xuân, now Huế. The Tây Sơn king fled north, then returned with an army to recover what he had lost. The Nguyễn chronicle records that Bùi Thị Xuân brought 5,000 troops. At Trấn Ninh, she tried to keep the offensive alive. Then news arrived: Nguyễn forces had defeated the Tây Sơn fleet. The infantry broke. The king fled. Later that year, she and her husband, General Trần Quang Diệu, were captured and executed. Nguyễn Ánh founded the Nguyễn dynasty as Emperor Gia Long. She could not save the Tây Sơn. Yet her resistance survives in the records of the dynasty that destroyed it. When even the king wants to retreat, how far should a commander go to keep fighting?
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【朝鮮の美女】 李蘭香 「顔立ちがよく、立ち居振る舞いが美しく、声も澄んでいた」 1936年の雑誌『三千里』は、イ・ナニャンをこう評した。美貌だけでなく、歌や踊りの才能でも名を馳せた女性だった。 平壌出身の彼女は、1913年、まだ少女だった頃にソウル行きの汽車に乗った。母から聞かされていたのは、王の前で歌や舞を披露する宴への出演だった。 彼女はキーセンとして芸を磨き、名人・河圭一に伝統音楽を学んだ。やがて朝鮮券番では、後進を指導する立場にまで上り詰めた。 1932年のレコードには、彼女自身の歌声が今も残っている。結婚してキーセンの仕事を離れた後も、歌の稽古を続けた。 さらに1970年から翌年にかけて、新聞に回想を連載。華やかな宴席や、そこに生きた女性たちの世界を、自らの言葉で書き残した。 写真には美貌が、レコードには声が、回想には彼女が見た時代が残った。 百年前の彼女の美しさは、今の皆さんの目にはどう映りますか?
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