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映画ぼっち・ざ・ろっく!
星のあしあと
ティザービジュアル公開
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「ぼっち・ざ・ろっく!」前日譚が
2027年に待望の映画化――。
監督・若林信×
キャラクターデザイン・堀口悠紀子×
脚本・吉田恵里香×
アニメーション制作・CloverWorks
bocchi.rocks/
#ぼっち・ざ・ろっく
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弟とか妹が100%本人の不注意で事故によって死亡したにも関わらず、側にいた兄とか姉が「私が……弟を殺したんだ……」と思い詰めてその後の人生の楽しみを全て投げ打って「私が……殺した……」と言い続けてるような展開が嫌いすぎて「自分の影響力を過大評価すな〜〜っ!!」と心が説教おばさんになる
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🚨CARALHO: Doutor indiano Binba Bundhas afirma que, o pênis fica torto para a direção do lado político em que a pessoa se identifica.
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友よ、もちろん、日本の優れたアニメーションの多くは複雑な思想と内容を秘めているという意味で「政治的」だ。
しかし、むしろきわめて高度に政治的であるが故に、単一の政治活動を代表し、あるイデオロギーを象徴することはむずかしいのではないか、と多くの日本人が考えていることを理解してほしい。
まず、ぼくが話しておきたいのは『ONE PIECE』の「反権力」的とも見える行動理念は日本の数々のアニメ/マンガのさまざまな思想的葛藤の末に出てきたものだということだ。
あなたたちも存知の通り、日本は1945年に第二次世界大戦の敗戦国となった。
このことによって日本のフィクション、殊に「正義」をテーマにするエンターテインメント作品は大きな思想的屈折を抱え込むことになった。
日本という国全体がそれまで盲信していた「正義」が敗れ去るところを目にして、自分たちの正しさを盲信的に信頼することができなくなってしまったんだ。
その結果が、あるいはあなたたちも知っているかもしれない『デビルマン』や『風の谷のナウシカ』といった名作マンガだ。
これらの作品においては善悪はそもそも明確ではなく、さらには容易に逆転し、最終的にはきわめて暗く終末的なヴィジョンに至る。
こういった展開はそのクオリティのレベルこそ違っても日本のアニメーションやマンガには繰り返し繰り返し登場してきた。
わかってもらえるだろうか。日本では自分たち自身の正義をつねに深く疑うことが習性になっている国民性がエンターテインメントのレベルで染み込んでいるんだ。
結果として日本のエンターテインメントはアメリカとも中国とも違うある種複雑に折れ曲がったものに育った。その意味で日本のアニメはまさに「政治的」な現象だ。
その事実を、いささかも否定するつもりはない。
しかし、一方でそれは勧善懲悪を旨とするエンターテインメントとしては大きな問題を抱え込むことでもあった。
いったいだれが自分たちの正義を信じられない屈折したヒーローを支持しつづけるだろうか?
もちろん、一作や二作なら異色作として通用するだろうが、いつまでもそんな作品が多数にあったら?
日本においては、この問題は70年代から80年代の「ロボットアニメブーム」を通してあらわれ、85年の『機動戦士Ζガンダム』における発狂する主人公というヴィジョンで頂点に達した。
くわしくは省くが、それに続いたのが95年の『新世紀エヴァンゲリオン』だ。
こういった作品のなかでもはや主人公たちはヒーローとしての活動のモチベーションを維持することができず、ただうずくまるばかりにまでなったといえるかもしれない。
『ONE PIECE』は一面ではそういった歴史の末に出てきた作品なんだ(当然、じっさいにはもっと膨大な作品が絡む複雑な歴史が存在する。これはきわめて単純化した話だ)。
そうであるために、『ONE PIECE』の主人公ルフィは何よりも尊いものとして「自由」を掲げ、自分と仲間たちをいわゆる「正義のヒーロー」とは峻別する。
これは「正義」を掲げた瞬間にさまざまな政治思想的ジレンマが発生することを意識しているためであるように思える。
『ONE PIECE』の自由至上主義は決して無邪気で子供じみた理想ではなく、血まみれの思想闘争の伝統を背負っているのだといえる。
『コードギアス』だってそうだ。ルルーシュはまさに「反権力」のヒーローだが、かれのテロリズムは決して無垢ではありえない。かれの血塗られた行動がどこまで「正義」に則っているのか、いまでも日本では議論がある。
そしてフランスの友人たちよ、ぼくはあなたたちの生活の不満と日常の問題が深刻なものであり、いまや政治権力に対する信頼が崩壊していることを、ある程度のところまで理解しているつもりだ。
そのうえでぼくや、多くの日本人は平和裏なデモと並行していて起こっているように見える暴力的な活動がむしろ生活弱者を襲っているのではないかという深い懸念を抱いている。
御存知の通り、ルフィはつねに自分より強いものにだけ立ち向かっていった男だ。しかし、友よ、あなたたちの国の政治活動はより弱い者の生活をも巻き込んで拡大しているのではないだろうか。
そうだとしたら、それはきわめて哀しむべきことであるように思えるのだが。
ある人間が大いなる自由を求めれば、その結果として巻き込まれる人も出る。
実のところ、この問題は映画『ONE PIECE FILM RED』においてすでに指摘されていたことではある。
なので、ぼくは『ONE PIECE』と麦わらの一味の名のもとでデモが進行することが正しいものなのかどうか、明確に判断することができず、ただ緊張感を持ちながら注視している。
そうなのだ、友よ、『ONE PIECE』も『コードギアス』も『進撃の巨人』ももちろん壮絶な反逆と抵抗の物語であり、そこには最も深刻な意味での「政治性」がある。
だが、あなたもきっと『進撃の巨人』がどのような結末を迎えたかを記憶していると思う。
ぼくを含む多くの日本人が心配しているのは制御を超えた敵意と憎悪があのような救いのない結末へと問題を導いていくのではないかということなのだ。
もしそんなことはありえないというのなら、ぜひ、あなたの言い分を教えてほしい。Xの頼りない自動翻訳がどこまであてになるか、ぼくは確信を持てずにいるが、なるべく誠実に読むことを約束する。
それでは、このポストが届くことを祈って。
おやすみなさい。





















