Pinned Tweet
というわけで当店の紹介をば。
andpremium.jp/article/music-…
これが「任意性」
xitter.gq/gentaa/status/19961530…
Replying to @susuharai
規格が揺さぶられることになるかもしれない。こんなミクロなところから始めてもよいのではないだろうか。「解釈するな、実験せよ」というガタリの声が聞こえてきそうである。」山森裕毅『フェリックス・ガタリ』p.130-131
これを架橋したのが松本清張と村上龍なんですね☕️
純文学とエンタメ小説の違いは何か。
もちろん、この二つを明確に分けることはできない。
純文学的なエンタメもあれば、強い娯楽性を持つ純文学もある。
それでも、敢えて一つの違いを挙げるなら、「描写」が作品の中で何をしているか、という点にあるのではないかと思う。
エンタメにおける描写は、多くの場合、読者への説明として機能する。
部屋が薄暗い。窓の外では雨が降っている。机の上には飲みかけのコーヒーがある。
こうした描写によって、読者は登場人物がどこにいて、何を見ているのかを理解する。
描写は物語を円滑に受け取るための情報であり、読者の頭の中に舞台を組み立てるための材料になる。
ところが純文学では、描写そのものが思考の一形態になる。
たとえば、人物が窓を流れる雨粒を見ているとする。
雨粒は途中まで別々の筋を描いている。しかし、いくつかは途中でぶつかり、一つになって落ちていく。
ここで重要なのは、「雨が降っている」という事実ではない。
なぜその人物は、雨粒のそのような動きを見たのか。
なぜ無数に存在する光景の中から、それを選び取ったのか。
地の文、つまり作者の思考と、主人公の視点から見える事物とが、思考の強度の中で溶け合っている。
見ることがすでに描写であり、描写することがすでに思考なのである。
この観点からすると、エンタメと純文学における描写の違いも見えてくる。
エンタメの描写では、「読者に何を見せるか」が重要になる。
純文学の描写では、それに加えて、「人間が何かを見るとはどういうことなのか」が問題になる。
だから純文学では、ときに何も起こっていない数ページが成立する。
人物が歩いている。窓を見ている。食事をしている。ただそれだけなのに小説になる。
そこでは事件の代わりに、認識が動いている。
物語が進んでいないように見えて、思考は進んでいる。
純文学において、描写とは物語の合間に置かれる装飾ではない。
描写そのものが、作品が考えている時間なのである。
僕も偶然、何かの役には立っていることでしょう☕️
xitter.gq/gentaa/status/21126905…
Chomsky Coffee & Library retweeted
『蜘蛛の巣』Das Spinnennetz(1923)
ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83…
Chomsky Coffee & Library retweeted
”「私は要するにイデアなのだ。場合により、見る人により、あたしの姿は自在に変化する」”
『騎士団長殺し』ー第2部下巻p.82
めちゃめちゃハイデガー!!!
Chomsky Coffee & Library retweeted
すぐに具体的なページ数までは出てきませんが、『海辺のカフカ』でアイヒマンに言及されるシーンがあって、そこでカフカ少年が読んでいる本が『イェルサレムのアイヒマン』としか思えないのですっ。ミドリの父親は認知症になって主人公の話を理解しているかどうかもわからない状態で独り言のように(続
Chomsky Coffee & Library retweeted
「汎ヨーロッパ・ピクニック」の発起人としてのオットー・フォン・ハプスブルク
ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82…
「おはこんばんちは!」
村上龍さんが「こんにちは!」と大声で挨拶する、アントニオ猪木のようなエピソードが面白いです。FRIDAY「追悼・村上 龍さん「作家に愛された作家」の″男も惚れる″素顔」>「龍さんは編集部にやってくると、全員に聞こえるほど大きな声で『こんにちは!』と挨拶するんです。帰るときも『ありがとうございました!』とお礼を欠かさない。私がビックリしていると、先輩編集者から『龍さんって、いつもああなんだよ』と言われたものです。爽やかでしたね。/初めて担当した若い女性編集者はみんな、『龍さんみたいな人と結婚したい』と言っていました。あんなにスマートでかっこいい作家は、後にも先にも龍さんだけでした」
news.yahoo.co.jp/articles/c1…
チョムスキー少年における「落差」はずっと「連鎖」しております☕️
Replying to @gentaa
ドイツ語担当の教授がベルリンの壁崩壊後まもないドイツに留学していたときの話を良くしてくれました。東西の経済格差が凄まじいころの暮らしぶりや橋を一つ渡るだけでどれ程違うかという話が文学的でとても良かったのです。
落差の媒介者に落ちることなく、どちらでもなく、どちらでもあった壁の垂直なるものを、チョムスキー少年はその断片にみたのかも知れません。
ジョジョの作った「道」を辿る話
youtube.com/watch?v=I4QaqpUA…
面倒くさい小学1年-性☕️
Replying to @infinieternel
散らばった破片集め。僕の記憶の中で初めて「これが欲しい」と父親にねだったのが、梅田の紀伊國屋で売られていた「ベルリンの壁」の破片だったことを思い出します。テレビの向こう側で起こっている出来事と、このもの-性がピッタリ来た瞬間です(なお、高かったので買ってもらえませんでした)
出会い直し☕️
Replying to @infinieternel
自前の図式も無事にここまで生き残っているけれど、やはり『現極』から受け継いだ入不二哲学の円環モデルが加わったことは大きかった。というのも始発点と転回点を自分で整理するのは途方もないことで、とっくに息切れしていた可能性もある。そして『何何何』は自分の問いを測定するための最高の尺度となるが、同時に問題提起に隠された潜在性が最大の問題になるような問題提起の再帰性に透明性を読み取る体験でもあると感じている。
だから「動的な」をくっつけるとタヒんでしまう世界がある☕️
Replying to @irifuji @GrimoireBook
「対象が作り作られる二重性を〈一つ/すべて〉の二重性で双極的に一度に」という強調点も押さえてくれていて、ありがたい。
ついでに言えば、
「何か」には、定への傾向性/不定性/可問性の三重の重なりが働いていて、それもまた、世界と言語のインターフェースとして捉えられる。













